ガルーダ
見慣れた景色。
見慣れた商店街。
行きつけの店で一週間分の食糧を買い込み、顔しか知らない店員に清算をしてもらう。
普段と変わらない休日。
このまま誰とも言葉を交わさずに帰れば、
シホ・ハーネンフースの休日はいつも通りに終了するはずだった。
「・・・シホ?」
「え?」
「シホ・ハーネンフースだろう?」
周りの喧騒にも関わらず、シホの耳にはっきりと届いた声。
懐かしいのに、けれど一日たりとも忘れたことのない響きだった。
「イザーク」
振り返ったシホの視線の先に。
かつての、上司がいた。
実際に彼と会って言葉を交わしたのは、ほぼ二年ぶりだ。
イザークはシホが手にしていた荷物を持つと、近くまで送ると自分の車へ促した。
ありがたく好意に甘えることにし、シホは助手席へと座る。
借りているアパートの場所を口にしながら、運転席に座る彼の横顔をのぞき見た。
今年で27歳になるはずの彼は、相変わらずはっとするほど美しい顔立ちだ。
さらさらとした銀髪を肩口で切りそろえているのもそのまま・・・。
ぴんと伸ばした背筋にスーツを着込み、首までボタンをしっかり留めているところが生真面目な性格を表している。
「今の仕事場はどうだ?」
「・・・まあまあですかね。緊張感の欠片もないですけど」
「この間、お前の上司に会って話をした。大層褒めていたぞ」
「イザークの前だからですよ。職場ではあの人と口喧嘩ばかりです」
現在シホは別の隊に配属され、軍に奉職し続けている。
反対にイザークは軍を退き、文官として働いていた。
二人の世界は、全く異なるところにある・・・交わることは、ないはずだった。
それでも、思い出を共有することくらいは許されるとシホは思っている。
「ディアッカはその後どうしていますか?」
「いまだに奥方の尻に敷かれているらしいぞ」
「・・・へえ、結局別れなかったんですか。絶対駄目だと思ったのに」
イザークの親友でありシホの同僚だったあの青年のお相手は、カメラマンをしているというナチュラルの女性だった。
イザークが軍を辞める少し前に、二国をまたにかけて離婚するかしないかの大騒動を起こしたことがある。
その後シホは別の隊に配属されてしまったのだが、どうやらあれは丸く収まったようだ。
「別れるといえば、ラクス・クラインがキラ・ヤマトと破局したというのは本当ですか?」
「本当だ。結構あっさりしていたな」
もともと、打算を前提に付き合っているようなカップルだった。
ラクスが議長職に就いた次の年には目も合わせなくなっていたらしい。
キラがメイリン・ホークという女と浮気をしていたのが決定的になった・・・と何かの記事に書かれたのが去年のことだ。
「この間、イザークとラクス・クラインのことが記事になってましたよ」
「ああ。最悪だ」
「マスコミは何でもネタにしますからね」
「・・・いや、あながち全部嘘じゃない」
「は?」
「あのピンクに、お茶だのコンサートだのにやたら誘われてる。
贈り物もすごいんだ・・・案外マスコミにリークしたのはあの馬鹿女かもな」
「恋する乙女ですか・・・。あのラクス・クラインが」
「歳を考えろって言うんだ」
「めったなことは口にしない方がいいですよ」
「俺の車だ。盗聴器などついていない」
イザークは口を尖らせる。
どうやらラクスからのアプローチには相当参っているようだ。
シホも苦笑いを浮かべながら話題を変えた。
「オーブは去年首長が交代してから、いい国になりましたね。
何と言うか・・・開けた感じで。外交もあまり威圧的じゃなくなったと聞きました」
「ああ。この間シン・アスカに会ったが、両親の墓を作ってもらえることになったと喜んでいた」
「シン・・・ですか。ルナマリアとの結婚式以来だわ」
シン・アスカ・・・ザフトのフェイスにまで上り詰めたことのある天才パイロットだ。
デュランダル派の人間として監視されつつも軍に残り、二児も得てつつましく暮らしていると聞いた。
「オーブから家族の死に関して正式に謝罪も来たそうだし・・・カガリは引退して正解だったな」
「きついですね」
「政治には向かん女だ。結婚もしたことだし、忘れられて静かに暮らせばいい」
「結婚?それは知りませんでしたよ」
「プラントではニュースとして取り上げるまでもないと判断されたからな」
「まさか、相手はアスラン・ザラじゃありませんよね」
伺うように言ったシホに、イザークは声を上げて笑った。
あの男に、今更カガリと寄りを戻そうとする勇気があるわけない、と。
地球のどこかの国にボランティアに行くと言ったまま、雲隠れしてしまったそうだ。
信号待ちをしている時、ピピピッと携帯が鳴った。
イザークのものだ・・・相変わらず、音楽ではなくアラームを着信音にしている。
シホはつい笑いかけて、しかし携帯画面を見るイザークの神妙な顔にどきりとした。
やがて信号が青に変わり、イザークの車がゆっくりと動き出す。
アラーム音を境に、車の中には居心地の悪い沈黙が降りた。
「あの・・・今のは・・・」
たまらなくなり、シホは口を開いてしまう。
それに対し、イザークは迷うことなく即答した。
「婚約者」
「・・・」
「二番目の、な」
シホがイザーク・ジュールと「恋人」と呼べる関係になったのは、もう十年も昔になる。
第二次ヤキン・ドゥーエ大戦の直前、イザークが始めて隊を与えられた時からシホは彼の部下だった。
正直、彼との関係は何がきっかけだったのか覚えていない。
シホ自身は見目麗しく、真っ直ぐな気性のイザークに当初から憧れを抱いていた。
でも・・・まさか彼が自分を選んでくれるとは夢にも思わなくて。
初めは信じられず、イザークに求められるままに身を任せていたシホだが、
彼の真剣な想いに気付き、共にのめり込むのにさほど時間はかからなかった。
関係は四年近く続いた。
シホはどんな条件の良い職場を提示されてもイザークの元を離れようとしなかったし、
イザークもなるべくシホを傍に置きたがった。
・・・結婚は、おそらくお互いが真剣に考えていたと思う。
そして。
それはかなわなかった。
二人を引き裂いたのは家族でも、仲間でも、友人でもない。
何の面識もない、プラントの少子化を憂う集団だった。
第三世代の出生率は改善せず、
政府の一部は優秀な人材の遺伝子を残すことこそがプラントの未来のためであると強弁に主張した。
白羽の矢は、ラクスやキラ、シン、イザーク・・・そしてシホにも立てられたらしい。
そして、二人の遺伝上の相性は思わしくなかった。
彼らはイザークやシホの家族や友人を使って説得させたり、実際に呼び出したこともある。
あの時は何と言われたか・・・。
コーディネーターの未来のためにあなたが必要だ、だからより相応しい相手を選びなさい、とそんな感じだった。
理由を説明されない検査も幾つか受けさせられた。
極めつけはシホの転属と、イザークの文官への打診。
どちらもほぼ強制的で、断ることは難しかった。
・・・いいや、抗うことはできたかもしれない。
少なくとも、イザークはそのつもりだったように思う。
けれども。
結局シホの方から別れを切り出した。
部屋のドアを開け、玄関を開けると同時に。
イザークの体が上から覆いかぶさり、二人で床に倒れこんだ。
荷物が散乱し、靴と共に転がる。
「・・・」
「・・・ッ」
イザークが、服を引きちぎらんばかりの勢いでシホの肌をあらわにしていく。
彼の車に乗って時点でこうなることを予想していたシホは驚くこともない。
荒々しい行為に、ただ身を任せた。
彼との別れを決意したのは、思い出を綺麗なままとっておきたかったからだ。
実際二人の愛はあまりに盲目的で、純粋だった。
だから穢れる前に、宝箱の中にしまいこんだ。
あの後、イザークはすぐに婚約者を宛がわれて結婚した。
ちらりと見たが、イザークに相応しい美しい女性だったと思う。
けれど関係は長続きせず、結局子供もできないまま離婚したと風の噂で聞いた。
さっきのメールの女性も、やはり遺伝子の相性で選ばれた婚約者なのだろう。
かく言うシホは、何人かの男と付き合っては別れていた。
結婚の話に行き着かないまま、喧嘩して別れて終わる。
二ヶ月前に付き合い始めた今のカレシも、あと一ヶ月もつかどうか・・・。
冷えていたはずのフローリングに、いつの間にか違和感がなくなっていた。
イザークの腕に封じ込められて少し窮屈だったが、不快ではない。
やがて、身体の中に相手の熱を感じた時。
シホは信じられないほど甘い声で鳴いた。
彼と一つになったことを感じ、強い快楽に意識を持っていかれないようしがみつく。
イザークの唇がシホの肌をすべった。
胸から首筋に移動し、柔らかく歯を立てる。
それを感じながら、この男でなければ自分は満足できないことをシホは自覚していた。
開かれた脚をさらに強く押さえつけられ、交わりが深くなろうとしていた・・・。
その時。
耳元で鳴り響いたオルゴールの音に、二人はぎょっとして行為をとめた。
肌と肌の間を流れていた汗が一瞬にして冷える。
だが、音の正体はオルゴールではなく。
シホの、携帯の着信音だった。
シホはそれに思わず舌打ちをしそうになる。
この音楽は、今付き合っている恋人からのものだ・・・どうしてこんな時に。
だがシホが行動を起こす前に、イザークがバックの中の携帯に手を伸ばす。
どうするのかと思えば、音楽を鳴らし続けるその携帯を部屋の奥の方へと投げつけた。
がんっ、と鈍い音がして、着信音が止まった。
・・・あの様子では壊れてしまったかもしれない。
「ふふふっ」
思わず。
シホは笑ってしまった。
どうしてだか分からないが、耐えようもなく笑いたかった。
イザークも自分を見下ろしながら笑っている。
それは生産能力が限りなくゼロに近い行為。
そして互いに相手がいる以上、背徳といわれる行為。
事実を笑いながら、二人はさらに身体をもつれ込ませる。
穢れた思い出も、悪くはなかった。
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2006/10/01