トモエ





 空気の切れる音。

 こんな澄んだ音がするのか、と思った。
 美しく、真っ直ぐに。
 空気の壁を切り裂き、一本の矢が的に刺さる。
 さくっという小気味よい音は、的のちょうど真ん中から。
 寸分たがわぬ腕前だった。
 へえ・・・と、イザークは思わず嘆息していた。

 朝の静まり返った弓道場でただ一人弓を射ているのは、袴姿の女生徒だ。
 つややかで長い黒髪は腰まで伸び、袴によく似合っている。
 本で読んだヤマトナデシコみたいだ。
 イザークの見たことのない顔だから、おそらく学年が違うだろう。
 なかなか綺麗な顔立ちをしている。
 瞳も髪と同じ黒で、意志の強そうな目元が凛としたものを感じさせていた。

 彼女は射終わっても、しばらく視線を的から動かさなかった。
 そして精神統一でもするように、ゆっくりと瞳を閉じる。
 背筋を伸ばした華奢な身体。
 それは美しい直立を保っていた。
 そんな彼女を見て。
 イザークはあの見事な矢の命中からすぐに心を離す。
 静かな時の中に溶け込みそうでありながら、確固とした存在感を持つ少女。
 とても不思議で。
 綺麗だ・・・と思った。



 イザーク・ジュールは、この高校で生徒会の役員を務めている。
 本来は会長になるつもりだったのだが、残念なことに選挙に落選してしまい
 ・・・いや、この話はやめよう。
 ともかくイザークは役員として非常に熱心で、いつも朝一番に登校し、生徒会室へ直行する。
 そこで年下の生徒会長の愚痴をこぼしながら仕事を始めるのだ。
 
 そして今日、彼はいつも通り朝早く登校した。
 きまぐれだった。
 何だか今朝は校内を歩き回ってみたくなったのだ。
 天気もいいし、春も半ばで気温も散歩には丁度よい。

 本当に、きまぐれだった。
 弓道場なんて、イザークは入ったことがない。
 通り過ぎようかとも思ったが、民俗学の本に「和の文化」として載っていたのを思い出す。
 どうせ誰もいないだろうと高をくくって入り込んだのだった。



 「何か御用ですか?」
 黒い瞳がこちらを映している。
 気配に気づいたのか、黒髪の少女が入り口に立っているイザークを見つめていた。
 「いや、通りすがっただけだ・・・邪魔だったか?」
 「いいえ。そんなことは・・・」
 少女は真っ赤になって口ごもる。
 「今の、ちょうど真ん中だったな。とても見事だったぞ」
 「・・・どうも」
 「朝早いんだな。いつもこの時間に?」
 「今日は・・・たまたま、です」
 彼女は手に持った弓をもてあます。
 先ほどの清浄で凛とした雰囲気とはうって違ってしまっていた。
 生っぽい、普通の少女の反応だ。
 そのギャップすら興味深く、イザークは笑みを浮かべた。
 「また見に来ていいか?」
 「・・・え?」
 「とても綺麗だったから、また見たい」
 黒い瞳を丸くし、少女はぽかんとする。

 返事を待たず、イザークは手を振って弓道場をあとにした。



 
 手渡された書類を、イザークはしばらくじっと見つめていた。
 そして自分のサインをそれに書き込むと、
 生徒会室のソファで雑誌を読んでいたディアッカを手招きする。
 真面目に仕事をしろ、という小言も忘れずに。

 「これをアスランに渡せ」
 「これ・・・?部費の増額願いか。
 めずらしいじゃん、イザークが何も言わずにOK出すなんてさ」
 文句でもあるのかとにらみつけるイザークを無視し、ディアッカは書類を覗き込む。
 「弓道部?ああ、そういえば一年の女子が全国を期待されてるんだっけな」
 「知っているのか?」
 するとディアッカは校内新聞を取り出し、部活動の紹介欄を指差す。
 弓道部のところに、「シホ・ハーネンフース」という名前があった。
 間違いない、彼女だ。
 何の根拠もないのに、イザークはそう確信した。
 けれどディアッカにそんな素振りは見せない。
 「ああ、とても優秀な選手がいると聞いたんだ。
 遅刻常習犯の会長殿よりもずっとこの学校のために精進していると・・・」
 
 「遅刻常習犯で悪かったな」

 ドアの方からふいにした声に、二人は顔を向ける。
 生徒会長のアスラン・ザラがが立っていた。
 「事実だろ。現に今日も40分の遅刻だ」
 「そーそー。俺より遅い時点で話になんないよね」
 「仕方ないだろ。幼馴染の宿題を手伝っていたんだ」
 アスランは反論しながら自分の机へと向かう。
 その途中でディアッカは例の書類を「あとヨロシクね」とアスランに押し付けた。

 「弓道部?」
 書類の内容にアスランは眉を寄せる。
 部費の増額となれば、猛烈に難癖をつけるのはいつもイザークだ。
 それなのに自分より先にサインがしてあることに違和感を覚えるのは無理なからぬことだろう。
 「珍しいな。イザークが何も言わないなんて」
 「そうだよね。大プッシュだし」
 「別に・・・そういうわけじゃない」
 「案外気になる子でもいるんじゃない?」
 「ディア・・・ッ」
 「そうなのか!!?」
 揶揄するディアッカの言葉に、アスランが過剰に反応した。
 ディアッカをどつくタイミングを奪われ、イザークはきょとんとする。
 アスランは怒ったような顔でイザークに迫ってきた。
 「どんな子だ?名前は?かわいいのか?」
 「お、おい・・・アスラン」
 「もしかしてもう付き合ってるとか?そんなはずはないよな・・・!?」
 「・・・」

 イザークは宙を仰ぐ。
 アスランはいつもこうだ。
 イザークがクラスメートの女生徒と少し口をきいただけでどういう関係だと怒って、
 とことん問い詰める。
 しかもその時は何だか・・・目がやばい気がする。
 どうしてこの学校の生徒たちはこんなのを会長に選んだのかと、イザークはそればかりが疑問だった。
 ディアッカはお前のことが好きなんじゃねぇのと言っていたが、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
 まさかゲイじゃあるまいし・・・(ずっと後になって分かることだが、実はそのまさかだった)。

 「ヒトメボレだ」
 「「・・・へ?」」
 「美人がいた。弓も上手かった」
 腰に手をあて、胸を張る。
 ・・・別にイザークが自慢することではないのだが。
 それでもそろって丸く口を開けている二人に言い放つ。
 どうにでもなってしまえ、と開き直りつつ。
 
 「立派な増額の理由だろう!」




 
2010/03/02


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