アカネ
第二水曜日と第四水曜日。
毎月この日だけは部活動は禁止される。
禁止・・・とはいえ、別に破ったところでペナルティがあるわけではない。
ただ学力低下への懸念、部活にかかるコストの削減、さらには顧問教師の負担の軽減。
様々な理由から設定された、この地域特有の伝統のようなものらしい。
・・・らしい、というのはシホ・ハーネンフースがここに来てからまだ間もないからである。
彼女は片田舎の中学を卒業した後、特別試験を経てSEED学園高等部に入学した。
中等部、高等部を抱えたこの学園は、基本的に高校受験のないエスカレーター式だ。
クラスメートは皆中学からの付き合いのため、彼女の存在は転入生に近かった。
「ふぁああ〜あ」
最近寝不足気味のシホは、誰も見ていないことをいいことに、大きなあくびをした。
手には今日の授業で出された宿題と参考書の入ったバッグを抱えている。
彼女にとってこの部活禁止日は、図書館で自習をする日と決まっていた。
シホがこの学園に特別入学できたのは、弓道の才覚を認められ国体選手としての期待を抱かれてのことである。
かといって全く勉強をしなくて良いわけではなく・・・。
シホ自身、田舎出身だからと甘く見られたくないというプライドがあった。
「・・・もう、何でこんなに宿題多いのよッ」
独りごちながら口を尖らせる。
これでもSEED学園は、政治家や企業家を排出していることで有名なエリート校なのだ。
シホは決して要領の悪い方ではないが、部活に勤しみながら高いレベルの授業についていくのはかなり大変だった。
「あーあ。これじゃ、身がもたないよぉ・・」
もしこれで弓道でも学校の満足する結果が出せなければ、後ろ盾もないシホは退学させられかねない。
入学以来、ストレス続きの毎日だ。
そんな現在(いま)に嫌気が差し、全てを放り出したくなった時もある。
けれど。
それでも、頑張っているのは・・・。
―――今の、ちょうど真ん中だったな。とても見事だったぞ。
―――また見に来ていいか?
―――とても綺麗だったから、また見たい。
褒めてくれた人がいた。
自分の努力を認めてくれた人がいた。
こんな自分の弓道を、「綺麗」だなんて・・・。
一ヶ月ほど前の、朝練でのことだ。
今でも夢ではないかと思うことがある。
銀髪が目に鮮やかな、それこそ「綺麗」な顔立ちをした男子学生だった。
名前も聞かなかったし、あれ以来会っていない。
ほんの数分、目を合わせただけ。
ほんの一言、二言・・・言葉を交わしただけ。
それでも頼るものもないシホにとって、あの学生との出会いが心の支えになっていた。
弓道で頑張って結果を出せば、この学園にいる彼はどこかで見ていてくれるだろう。
また「綺麗」だと思ってくれるだろう。
それが恋だという自覚はあった。
その「恋」がシホを学園にとどめている最大の理由になるのに、時間はかからなかった。
高等部の建物を出て、渡り廊下を歩く。
学園の図書室は高等中等共通ということもあって、別の棟に独立して建っているのだ。
「ん?」
ふと、視界の端で何かが動いた。
シホは反射的に立ち止まり、そちらへと視線を這わす。
整えられた花壇の後ろに隠れるようにして、うずくまる人影があった。
植えられた植物が背の高いものだったからだろう、正面からは気付かなかった。
「ねえ・・・どうかしたの?」
シホはうずくまる人物の様子がおかしいことにすぐ気が付いて歩み寄る。
制服がズボンなので男子学生のようだが、傾きかけた日に反射して輝く金髪は肩まで伸びていた。
それが相手の顔を完全に覆い隠しており、表情が全く分からない。
「ねえ君、聞こえる?」
シホは少年・・・どうやら中等部の学生のようだ・・・に呼びかけながら、それとなく周囲を見渡す。
しかし放課後、しかも部活のない日の校舎はがらんとしていて人気はなかった。
困った・・・。
それでも声をかけた以上は無視するわけにもいかない。
しばし迷って、少年の肩に軽く手を乗せて揺さぶった。
「顔を上げてみて。・・・気分が悪いの?」
「・・・ぅ」
ぴくんっ。
ようやく男子学生が反応らしい反応を示した。
僅かに背中を震わせ、そして酷く緩慢な動きで顔を上げる。
ぱさり。
金色の髪が一房零れ落ち、ようやくその顔があらわになった。
青空を映し取ったかのような、濃い水色の瞳。
長い睫に囲まれたそれに食い入るように見つめられ、シホはどきりとしてしまった。
「だ、大丈夫?」
「・・・」
一瞬気を呑まれてしまったシホだったが、よく見れば少年の瞳は焦点が全く合っていなかった。
顔色も良いとはいえない・・・貧血だろうか。
頼りなげな少年の様子に、シホに母性に近いものが芽生える。
重い参考書入りのバッグを躊躇なく地面に置き、少年の肩を抱いた。
「保健室行こう?送ってあげるね」
「あーもー!遅くなっちゃったよぉ・・・」
廊下を走りながら、シホは慌てて元来た道を戻る。
保険医のムルタ・アズラエルはたまたま在室しており、運がいいと思ったのもつかの間だった。
運んだ男子学生の手帳から学年とクラスを調べたアズラエルは、学生の担任にこのことを知らせるよう言い渡したのだ。
シホとしては早く図書館に行きたかったのだが、保険医が出て行ったら少年は誰もいない保健室で一人きりになってしまう。
そうでなくとも、このアズラエルは優秀なくせに性格はへそ曲がりの高慢ちきで有名だった。
ごねたら後々厄介だと判断し、言われた通りに教務課の男子学生の担任に事の次第を報告し、
ようやく本来の目的の場所へと向かうことができたのだった。
「・・・あれ?」
参考書を置いた場所に戻ってきたシホは、花壇に腰掛けている人物に気が付く。
誰だろう、と近づいて・・・そして固まった。
こちらに背を向け、夕日に照らされているその人物の髪の色。
鮮やかな茜に染まりつつあるそれは、切りそろえられた銀髪。
後姿でもはっきりと分かる。
忘れようもない、あの時の名も知らぬ男子学生・・・。
「ああ、戻ったのか」
気配に気が付いた青年がこちらを振り向き、シホを認めて微笑む。
「遅かったな。やっぱり追いかけた方が良かったか?」
「え・・・、あの・・・?」
まるでそこでシホを待っているのが当然であるかのように、響きの良い声で話しかけてくる。
手には置いていった参考書入りのバッグ。
「ど、どうして?」
「いつも部活のない水曜日は図書館にいるだろう」
「は、はあ・・・知って?」
「俺もよく図書館にいるから・・・そうしたら見えたんだ、あの窓から」
銀髪の青年はそう言いながら、図書館の方を指差す。
確かに図書館の窓は見えるがかなり離れているのでは・・・どうやらかなり視力が良い方らしい。
「お前、優しいんだな」
「え・・・あ・・・っ」
「あの中等部の学生、保健室に連れて行ったんだろう?」
「・・・はい」
見えた、と言っているのは、あの金髪の少年を助けたことを言っていたのだ。
水曜日は自習を知られていたことや、先程のことを全て見られていたことに、正直シホはうろたえた。
彼にとってシホは、名前すら知らない他人に近い存在だと思っていた。
なのにどうだろう。
彼はシホのことなど全て見透かしたように、そして親しく話しかけてくる。
心の内まで知られているのではないかと・・・あるはずもないことを想像してどぎまぎしてしまった。
「本当はな、手伝おうと思ってここまで来たんだが・・・もうお前らいなくて」
「はあ」
そりゃそうだろう。
ここから図書室だと、走っても五分は確実にかかる。
「追いかけようか迷ったんだが・・・どうもあのアズラエルは苦手でな」
「・・・」
「すまなかったな」
「え!?い、いえ・・・ッッ」
突然謝ってきた青年に、シホはぶんぶんと首を振る。
見なかったことにすればよかっただけの話だというのに、想像以上に真面目で固い人だ。
「じゃあ、行こうか」
「・・・え?」
「勉強するんだろう?詫びに付き合ってやるよ」
「・・・」
「嫌か?」
「・・・ッッ」
再びシホは首を横に振る。
うろたえを通り越し、混乱してきた。
「じゃあ・・・ほら」
青年がバッグを持っていない方の手を、シホへと差し伸べる。
白くて整った、でもシホのものより大きい掌。
つきんっ、と何かが胸を刺した。
シホはそれを取ることをためらってしまう。
だって自分の手は、弓を引くために無骨でささくれていて・・・こんなに綺麗な手に似つかわしくないと思ったのだ。
「何だ?」
立ちすくむシホに、青年は首を傾げる。
「あの・・・どうして、私を・・・?」
「・・・ああ」
シホの言葉をどう受け取ったのか、青年は合点が言ったという顔をした。
そうして、また「すまない」と謝る。
「お前のことは、いろいろ聞いて知ってるんだ。シホ・ハーネンフースだろう」
「・・・」
「いきなり馴れ馴れしくして失礼だったな。驚かせたか?」
驚いたなんてもんじゃない。
そう言い返したかったが、青年は固まったままのシホの手を自分から取った。
そのまま自分の方へ、くいっと引き寄せる。
・・・馴れ馴れしいのは失礼じゃなかったか?
でも、胸の痛みはいつの間にか消えていた。
「俺は二年のイザーク・ジュールだ。生徒会の役員をしている」
よろしくな、と言われて。
繋いだままの掌の熱をようやく認識し、シホは赤面した。
2010/03/02