カッツェ





 良い天気だった。
 ニコルはサイクリングロードを走りながら木の隙間から見える青空を見上げる。
 先週も先々週も日曜日の天気は雨で、近所のお姉さんから譲り受けた自転車を車庫の奥から引っ張り出したのは半月ぶりだ。
 ニコルは早朝に自転車に乗って感じるこの空気が好きだった。

 腕時計をにらみながら一本細い路地を曲がる。
 どんぴしゃりだったようで、目的の後ろ姿がすぐ目に付いた。
 「イザーク!」
 名前を呼べば、振り返った彼のアイスブルーが細められた。
 ニコルの大好きな色だ。
 「おはようございます」
 「…ああ、おはよう」
 イザークはもごもごと挨拶の言葉を口にすると、またすぐ前を向いてしまった。
 その様子に苦笑しながら自転車を降りる。
 イザークは朝が苦手だ。
 今日のようにぶすくれながらも挨拶を返すのならまだいい方で、声をかけただけで怒り出したり怒鳴ったりすることがある。
 あくまで聞いた話だが、アスランは顔面を殴られたことがあるそうだ…拳で。
 本人いわくこれだけはどうにもならないようで、ニコルも慣れてしまってからは気にしていない。

 通学路だが、日曜日の早朝ということもあって二人以外の人気はなかった。
 ニコルは自転車を引きながら、イザークのすぐ隣を彼の歩調に合わせて歩く。
 「おい、ニコル」
 「何ですか?」
 「俺に何か用か?」
 「いいえ」
 「だったら…」
 どうして自分と一緒に並んで歩いているのか。
 イザークは言いかけてやめたようだ。
 三週間前にも同じ質問をしたことを思い出したのだろう。
 「サッカー部の朝練だったか?」
 「はい。マネージャーは選手よりも早く準備を始めなければなりませんから」
 「…」
 「イザークは生徒会関係ですよね。日曜日も大変ですね」
 「…」
 「…イザーク、大丈夫ですか?」
 「…」
 イザークは歩みこそ止めていないが、顔をうつむけ黙してしまった。
 どうも寝不足からくる倦怠感で参っているようだ。
 文化祭が近いし、その準備に追われているのかもしれない。
 と、そこでニコルは昨日アスランを見かけたときのことを思い出した。
 日曜はどこかに出かけると言っていなかったか。
 確か…このあいだ編入してきたキラ・ヤマトという生徒にねだられて、父親のプライベートビーチに行くとか行かないとか。
 ディアッカは三日前から留守にしている。
 また舞踊の公演があると聞いたから、あちこち飛び回っているのだろう。
 役立たずの会長と部活で多忙な書記が留守では、それは忙しいだろうとニコルは同情した。
 まあ、彼の日曜登校は他にも動機があるようなのだが。

 「…イザーク」
 「なんだ?」
 今度は反応があった。
 「後ろ、乗りますか?」
 自転車の二人乗りは原則禁止だ。
 ニコルは校則に厳しい副会長に怒鳴られるのを覚悟で聞いたのだ。
 イザークは怒っている時が一番元気で彼らしいのだから。
 彼はしばらくアイスブルーを丸く見開いていた。
 そして短く「止まれ」と口にする。
 ニコルが言われた通りに止まると、やや乱れた銀髪を手櫛で直しながら睨んできた。
 「あの…」
 「なにしてる、早く乗れ」
 「はあ?」
 「はあ?じゃない。貴様から言ったんだろう、早く乗れ」
 「は、はい!」
 ニコルは慌てて自転車に跨り、シートに腰を下ろす。
 後ろの荷台に彼が腰掛けるのが分かった。
 と、後ろから白い手が伸びて、「乗せろ」という。
 手の先には黒いカバン…ああ、前のカゴに乗せろということか。
 受け取ったそれが意外に重いことに驚きながら、自分のカバンと一緒に前カゴに入れる。
 そのままイザークの両腕が、ニコルの胸の前で絡みついた。
 「…!」
 思わず身を強張らせる。
 でもそれは嫌悪感からではなかった。
 頬が火照り、心臓が早鐘を打つ。
 イザークにばれはしないだろうかとありえない心配をしてしまう。
 そうこうしている間にも、彼はさらに体を密着させてきた。
 右肩にやや重い感触…頭だ。
 「い、イザーク。まさか寝ぼけて…」

 「こげ」

 有無を言わさぬ命令に、ニコルは思わずペダルをこぎ出していた。
 背中にイザークの体温を感じる。
 「校門の前で降ろせよ」
 「分かりました」
 寝ぼけてはいないらしい。
 二人乗りを目撃されてはならないという認識はあるのだ。
 それでも自分に甘えるなんて珍しい。
 彼は弱みを見せたがらない。
 年下のニコルになど言わずもがなだ。
 「体調が悪いのなら休めばいいのに…。日曜日は休むためにあるんですよ?」
 「貴様に言われたくない」
 「…」
 この会話も三週間前にやった気がする。
 イザークは覚えているだろうか。
 このまま学校に着いたら、彼は生徒会室に向かう前に弓道部の朝錬の様子を見に行くのだろう。
 いつの間にかイザークのお気に入りとなっている同級生の少女のことはよく知っていた。
 だからと言って付き合っているわけではない。
 お互いの存在を確認しあうような、視線を交わすことさえ恥じている幼い関係。
 
 それでもあれは、「恋」と呼ぶのだろう。

 校舎が見えてきた。
 イザークはニコルの背中にべったりくっついたままぴくりともしない。
 自分を信頼してくれている、体温。
 それが今の自分と彼の距離なのだ。
 今はまだ、その距離が嬉しい。
 でもいつか。
 「イザーク」
 「…」
 「僕も、恋してるんですよ」
 
 物足りなくなる時が来るのだと、分かっていた。
 


 
2010/10/30


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