レモネード・トラップ 01
空の色の瞳をしているんだね。
そう言われたことがある。
…そんなことがあった気がする。
レイはオイルに汚れた手で無造作に髪をかき上げた。
見上げた空には鉛色の雲がかかっている。
確かにこの澱んだ重苦しい色は、自分の中に渦巻いているものに似ていると思った。
「レイ、準備できたか?」
「もう少しだ」
手を止めていたレイに、仲間のカミーユが歩み寄ってくる。
疲れていると思ったのだろう、レイに座るよう促し手にしていたトレイを差し出した。
「少し休めよ、お前に倒れられたら大変だ。ここのエースなんだからな」
「MSについて多少の知識があるだけだ。他は皆と一緒だよ」
レイはそう言ったが、大人しくカミーユの隣に腰を下ろした。
トレイから保存食を取って口に運ぶ。
味気のないたんぱく質の塊だが、この国では貴重なものだ。
「レイは本当に凄いよ。コーディネーターでもないのにMSに乗れるし修理もできる。
きっと次の戦闘は政府軍をぎゃふんと言わせられるぜ」
「…ああ、だといいな」
この国の名はファーレンという。
欧州の国と国に挟まれた小さな国家だ。
十数年前までは王制国家であり、小国にありがちな問題はあれども穏やかな国政を保っていたらしい。
らしい、というのはレイはファーレンの出身ではないからだ。
レイがある男に連れられこの国にやってきたのは、
クーデターによって王族を追放した現政権と、何とか王制を復活させようとするレジスタンスの争いが急激に激化した半年前のこと。
国際的にはデスティニープランを提唱して各国を従わせようと画策したプラントのデュランダルが、
ラクス・クラインとオーブのアスハ首長を先頭とする義勇軍に倒れた直後だった。
レイにはファーレンに来る以前の記億はない。
ただレイを連れて来た仮面の男とレジスタンスの頭領が顔見知りらしく、レジスタンス入りは割りとすんなり運んだ。
彼は支援国から密かにまわされるMSのパイロットを難なくこなし、先の先頭では政府軍への大打撃に貢献した。
さらに素人にMSの操縦や銃の訓練をしたり、きつい労働も率先して引き受けるので、
いまやメンバーはレイを受入れるだけでなく絶大な信頼を寄せ頼りにしている。
「アンリ殿下はファーレン入りを希望しているらしい」
「勇敢だな」
アンリとはファーレンを追われた王族の一人で、レジスタンスが旗頭としている。
まだ14歳と幼いが、非常に聡明らしく周囲からも期待されているようだ。
ファーレンに戻りたいという意思を示したのは、レジスタンスの士気を上げるためだろう。
本当にアンリが聡明なのか、あるいは周囲に優れたブレーンがいるのかは会ったこともないレイには分からないが。
「ファーレンの国境はまだ政府軍の支配下だ。近づくと同時に撃ち殺されちまう」
「…もしかして次の目的は一部の国境の奪還か?」
国境を維持することは難しい。
しかし一時的に支配下に置くだけなら今のレジスタンス軍にも可能だ。
その隙にアンリや他の王族関係者、かつての重鎮たちを招き入れることはできるかもしれない。
「リーダーはそれを目的にしてたみたいだけど、きっと取りやめになるわ。戦闘もしばらく中止よ」
突然高い声がして、レイとカミーユは同時に声の方へ顔を向けた。
カミーユと同じ紺青の髪に茶色の瞳をした女性が、色っぽい肢体に似合わぬ無骨なマシンガンを肩から下げている。
「シーシー…」
「どういうこと、姉さん?」
カミーユの姉シーシーは、レジスタンスのサブリーダーを務めている。
彼女はトレイから最後の保存食を取ると無造作に口に運んだ。
「さっきフランスに滞在しているアンリ殿下の側近から連絡があったの。…あのオーブが介入するらしいわ」
「オーブ?中立の?」
「確かな情報よ。すでに軍が動く準備を始めているとか」
「お、オーブはどっちに?まさか政府軍に味方したりしないよね!?」
「…分からない。あの国の立場からすれば、和解調停に乗り出すのが常策だと思うけど」
つい数年前まで、地球はコーディネーターという遺伝子操作された人間を認めるか否かで血みどろの争いを繰り広げていた。
そのどちらにも属さない中立の立場を示しながら、しかしどちらにも多大な影響を与えたのがオーブという国だ。
首長が歳若いカガリ・ユラ・アスハになってからは中立の方針に揺らぎが生じ、一時的に首長が脱国するという事体に陥ったことがある。
最終的にプラントと同盟、現在はラクス・クライン議長との親密さからプラントの属国であると揶揄する者もいた。
そのオーブがこのファーレン内乱に介入する。
普通に考えれば和議の仲裁に入ると思うこともできるが、先の経過を鑑みれば安直に判断できない。
さらにこの国の対立は単なる政権争いでも、ましてやコーディネーター論争でもない。
実は旧王制派はキリスト教カトリック、現軍政派はキリスト教プロテスタントをそれぞれ支持しており、
支援国家や国民もどちらに属するかで立場をことにしているという宗教問題も絡んでいた。
「オーブの国教は独自のもの。この問題にどう絡んでくるかは未知数というわけか」
レイの呟きにシーシーは頷く。
「オーブが来るのなら、プラントのザフト軍もおまけで付いてくる可能性が高いわ」
「もしそれが、政府軍に味方なんかしたら…」
ひとたまりもない。
見上げた空は、青には程遠い。
地球は青い星だと聞いていた。
宇宙からその星を見たとき、確かにその通りだと思った。
シホは不思議でならない。
外から見ればあれほどに美しい惑星が、大気圏に入るなり鬱屈した空気をまとわり付かせるのは何故だろう。
あの輝く青が、近くで見るとどんよりした黒に見えてしまうのは何故だろう。
「ハーネンフースさん、ちょっと見ていただけますか?」
レポートを差し出してきた青年に、シホは軽く微笑んだ。
「ご苦労様、シン君。データの移項は上手く出来た?」
「多分、大丈夫だと思います。動作に問題はありませんでした」
青年の赤い瞳が一瞬シホを映し、すぐに伏せられる。
二日前にこの艦で初めて引き合わされたシン・アスカは、まだシホとの距離を測りかねているようだった。
前もって聞いてた情報では、パイロットとしては優秀だが粗野で攻撃的な性格だとのことだったが…。
シホはレポートに視線を移すと内容を頭の中に滑り込ませる。
元技術者だったので、紙面だろうと画面だろうと、記号化されたプログラミングを立体で把握するのはお手の物だ。
シン・アスカは今回の任務からキラ・ヤマトが隊長を努める隊に派遣され、同時にザクファントムを一機与えられることになった。
これまでずっと高スペックの機体に搭乗していたため、ザクに彼に適したプログラミングを施すのに時間が掛かっていた。
「うん。問題なさそうよ」
「あ、ありがとうございます」
シンの白い頬が僅かに紅潮した。
「あとでテストしてみる?オーブに到着するまで丸一日あるし、私もグフをしばらく動かしていないから」
「はい。…俺なんかでよければ」
オーブという名前にシンの表情は微妙に揺らいだが、誘ってもらったことは素直に嬉しかったらしい。
端整な顔に初めて笑みらしきものが浮かんだ。
ジュール隊に所属するシホ・ハーネンフースがヤマト隊と行動を共にすることになったのは急遽決まったことだ。
前議長ギルバート・デュランダルが失脚・行方不明になった後に議会を掌握したラクス・クラインは、
特務隊フェイスの制度を廃止し新たに議長直属の特務隊を編成した。
その隊長に任命されたのが大戦で功績があったキラ・ヤマトであり、初任務が今回のオーブ派遣であった。
特務隊はクライン派の息のかかった者ばかりで編成されているが、例外として元フェイスのシン・アスカが加わっている。
そして元技術者で地球での任務に経験があるということで、シホが臨時隊員として同行することになった。
シホにとっては寝耳に水の話だった。
政権が交代した混乱も落ち着き、ジュール隊の新たな配属も決まってこれからという時だったのに。
任務を言い渡したイザークも困った顔をしていた。
副隊長的存在だったディアッカ・エルスマンが新たに自分の隊を受け持つことが決まっており、シホを頼りにしていたのだ。
しかし軍に所属する以上は上からの命令に従わなくてはいけない。
シホは悶々としたままヤマト隊に旗艦として与えられたアークエンジェル級《パワーズ》に乗り込んだのだった。
そこで同じはみ出し者のシン・アスカと言葉を交わすようになり、こうしてプログラミングの手伝いも買って出るようになっている。
デュランダル政権では暴れ放題だと言われていたシンは思いのほか幼く頼りなげで、護ってやりたいという保護欲が湧いたこともあった。
そのままシンと談笑しながら歩いていると、反対側から別の隊員が近付いてきた。
眼帯をした女が一人と男が二人、シホたちより一回り以上年嵩だ。
すると明るさを取り戻していたシンの顔が一転する。
「早速お仲間集めかい、懲りない坊やだね」
女…たしかヒルダとか言ったか、嘲笑を浮かべてシンを横目にしている。
男二人もわざとらしく肩をすくめてみせた。
明らかにシンにプレッシャーを与える三人に、シホは我慢ならなくなってきた。
ここにイザークがいたのなら絶対に注意するはずだ。
「ちょっと、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「なんだって?」
「言いたいことがあるのならはっきり言いなさい、って言ったの!」
険悪な顔でにらんでくるヒルダたちに、シホも負けじと睨み返す。
こんな良い歳をした大人が三人もそろって子供一人を攻撃するなんて許せない。
「この餓鬼はデュランダルの手先だったんだよ。ラクス様に逆らった奴を庇うなんてどうかしてる」
「手先じゃないわ。軍人だから命令に従っていただけよ」
「こいつの味方をする気か?」
「少なくとも、言い返せない相手を寄ってたかって嬲るような人たちに味方する気はないわ」
「は、ハーネンフースさん。俺のことは…良いですから」
ヒルダたちに怒気のみならず殺気まで現れたことに気付いたシンがおろおろし出す。
自分が攻撃されるのならばともかく、シホまでとばっちりを食ってほしくないのだ。
「良い気になりやがって、このアマ!」
「お止しよヘルベルト」
「そうだぞ、この女はラクス様が直々に…」
「うるさい!こんな小娘には一度思い知らせてやればいいんだ」
そう言うが早いか、ヘルベルトと呼ばれた男は前に躍り出てシホの胸倉を掴んでいた。
ヒルダとマーズ、そしてシンが慌てて二人を引き剥がそうとするが…。
ダンッ!
「へ?」
「は?」
「…」
次の瞬間には、ヘルベルトの身体は床に叩きつけられていた。
二回り近くも体格に差のあるシホが、胸倉を掴まれたと同時に相手を背負い投げていたのだ。
「ラクス様の理念は『まず対話から』じゃなかったかしら?いきなり女の胸倉掴むなんてとんだ平和の使者ね」
「ぐ…、このっ」
状況を理解したヘルベルトは、顔を真っ赤にして起き上がる。
二、三歩下がったシホは表情こそ変えないが厄介なことになったなと思った。
背負い投げは反射でやってしまったのだ。
まさか相手がいきなり激昂して掴みかかってくるとは思わなかった。
「やめて下さい、お願いします!」
シンがシホの前に立ち、ヘルベルトに懇願するが、頭に血が上っている相手には聞こえていないようだった。
だがその時。
「やめろ!」
全く別の人物の声が響いた。
途端にその場の空気が一変する。
「ヤマト隊長…」
「キラ様」
白い隊長服をまとったキラ・ヤマトだった。
静かな表情だが、鋭い視線をヒルダたちに向けている。
「キラ様、あの…」
「ヒルダさん、ヘルベルトさん、マーズさん…ハーネンフースさんとシンはまだ隊に慣れていないんですよ。
これから行動を共にする仲間を威圧するようなことはしないでください」
「…もうしわけ、ありません」
ヒルダたちは驚くほど素直に頭を下げる。
キラに逆らうことは、彼らが崇拝するラクスに逆らうことだからだ。
すごすごと立ち去っていく三人の背中を見送ると、キラはシホとシンに向き直った。
「不愉快な思いをさせてすみません。特にハーネンフースさんにはこちらの我儘で来てもらったのに」
「いいえ、私こそ思わず相手を投げ飛ばしちゃって…」
「掴みかかったのはあちらの方です。気にすることじゃありません」
キラは穏やかな笑みを浮かべる。
シホもつられて作り笑いをするが、半歩後ろにいるシンは顔を俯けてキラを見ようともしない。
「シン、大丈夫?顔色が悪いようだけど…」
キラが気遣うようにシンの頬へと手を伸ばす。
するとシンはひっ、と喉をひきつらせるような悲鳴を上げて、その手を振り払った。
「…」
「シン君?」
シンもはっとした様子でキラとシホを交互に見る。
自分が何をしたのか理解すると、元々悪かった顔色がさらに青白くなっていった。
「シン…」
「す、すみませんっ」
シンはまるで追い立てられるように、踵を返して走り去っていく。
後には呆然とするシホとキラが残された。
2010/03/19