クロニクル <1>




 蒼い。
 蒼い。
 蒼い。
 視界が蒼一色だ。

 シンは湖へと落ちていた。
 水に、吸い込まれる・・・。
 ―――どうしてこんなことになったんだっけ?
 別に死にたいと思っていたわけではない。
 なかった、はずだ。
 ただ、湖を眺めていて。 

 思い出したのは、戦争の犠牲になった無垢な少女。
 ここよりずっと冷たい所で。
 ここよりずっと寂しい所で。
 ここよりずっと暗い所で。
 彼女は眠りについた。
 今も、これからも・・・。

 ああ、やっぱり無意識に望んだのかもしれない。
 自分はきっと、死にたかったのだ。
 直前の記憶があやふやだが、誰かが自分を突き落としたなんて考えられない。
 自分から湖へと沈んだのだ。
 それしか考えられない。

 死ぬ・・・。

 これから自分は死んでいくのか。
 それとも、もう死んでいる?
 シンの体はゆらりゆらりと螺旋を描いて、頭から落ちていく。
 水の中では体は浮くはずなのに・・・。
 まるで水の方がシンの身体を引き寄せているようだ。
 視界に広がる蒼の世界は、泣きたくなるくらい美しかった。
 上からの太陽の光が木漏れ日のように水中を踊る。
 ちっとも冷たくなんかなかった。
 それどころかシンを包み込み、優しく抱きとめる。
 何も守れなかった、ただ壊すだけだった自分。
 その罪さえ、まるでちっぽけなものというかのように懐へいざなう。
 甘くて残酷な誘惑に負け、シンは瞳を閉じようとした。

 ―――ルナ。
 まさに瞳が閉じられる瞬間に現れた人。
 それは両親でも、マユでも、ステラでもない。
 最後までシンを見捨てず傍にいてくれた、少女の幻影だった。
 
 ルナ。
 ルナ・・・!
 死ぬ間際の自分が作り出した幻影。
 それが分かっていながら、シンは夢中でルナマリアへと手を伸ばした。
 不思議なことに、その幻影は触れても消えなかった。
 まるで本物に触れているようで、シンは思わずその身体を力いっぱい抱きしめる。
 覚えのある、柔らかい感触。
 強がって、理屈で無理矢理納得させようとしても。
 結局は会いたくてたまらなかった。
 抱きしめたかった。
 だって・・・。

 好き、だよ。

 二人の体はもつれあいながら落ちていく。
 湖の奥。
 ずっと、奥。
 シンは少しだけ腕の力を緩める。
 ブルーパープルの瞳と視線がぶつかった。
 綺麗。
 ルナってこんなに綺麗な子だったっけ。
 それとも、自分が都合よく幻影を造っているだけ?

 どれくらい見詰め合っていただろうか。
 シンにはとてつもなく長い時間に感じたが、実際は一瞬だったのかもしれない。
 やがて二人は。
 白い光と蒼い水に包まれたまま。

 キスをした。





 ちらちらと、瞼の隙間から差し込む光と、窓から入り込む柔らかい風の揺らめき。
 ・・・さわやかな朝の気配。
 シンはゆっくりと意識を浮上させた。
 このときの身体が持ち上がるような感覚が気味悪くて仕方ない。
 今までこんなことはなかったのに・・・。
 覚醒すると同時に感じる、身体が消え入るような錯覚。
 それが「目を覚ます」という何でもない行為に対し、シンを怯えさせるようになっていた。 
 恐る恐る瞼を開く。

 視界に入ったのは白い天井。
 同じ色の無機質な壁。

 「・・・」
 のろのろと体を起こす。
 広く、手入れが行き届いている上品な造りの部屋。
 一見してお金をかけていると分かるそれはしかし、
 派手な装飾品や絵画などはなく、手作りと分かるタペストリーや小物が趣味よく配置されている。 
 ここ三日、この小奇麗な白い部屋こそがシンの空間となっていた。


 「んんー、もうっ!なんて可愛いの、とっても似合ってるわ」

 イザークは何度目か分からない母の叫びにいい加減うんざりしていた。
 寝不足のために痛むこめかみを押さえながら、臨時で雇ったハウスキーパーにコーヒーを頼む。
 いつもなら朝食抜きの不健全な息子を諭すエザリアも、今朝ばかりはスルーしていた。
 「ねえねえ、イザークも見てちょうだい。あなたがずっと前に来てた服よ。取って置いた甲斐があったわぁ」
 「・・・ええ、そうですね」
 苦々しく言葉を返したイザークの視線の先にはエザリアの手によって着替えさせられたシンがいる。
 これで着替えは朝から三度目・・・四度目、だったか。
 イザークが三年ほど前に着ていた服を、エザリアは朝からシンに着せて喜んでいるのだ。
 シンは文句も言わず、ぼうっとした顔でされるがまま。
 おかげでエザリアは新しいおもちゃを手に入れた子供のようにはしゃいでいる。
 これでシンが女の子だったらイザークとて微笑ましい気がしないでもなかったが・・・。
 「母上、もうその辺にしておいたらいかがです?そいつは着せ替え人形じゃないんですよ」
 「だってだって、この子ってば、とぉっても可愛いんだもの。
 この服だってほら、イザークったらすぐに背が伸びちゃって、半年しか着なかったものなのよ。
 ああっ、そうだわ。そういえばアカデミーの入学祝に買った服もまだ棚にしまって・・・」
 「母上、母上・・・」

 本格的に痛み出した頭に顔をしかめながら、イザークは母の言葉を遮った。



 朝の一幕を話し終えると同時にデスクに突っ伏したイザークに、
 部下であり親友でもあるディアッカは同情のまなざしを向けた。
 「へえ、そんなことがあったわけだ」
 「母も母だがシンの奴もされるがままだし・・・ったく、あのガキにはプライドがないのか!」
 「隊長、言葉遣い」
 「うるさい!」
 
 アスランから依頼され、イザークがシンの身柄を預かったのはつい数日前。
 ザフトとオーブが停戦した直後だ。
 何故アスランがデスティニーのパイロットをエターナルに乗せているのかは分からなかったが、
 彼がその少年の存在を持て余しているのは目に見えて明らかだった。
 シン・アスカといえば、今大戦におけるザフト期待のトップエースだ。
 ネビュラ勲章を二つも授与し、若干16歳で議長直属のフェイス。
 だがその輝かしい戦歴も、今や彼にとっては足かせでしかない。
 彼を取り立てたギルバート・デュランダルは、事実上の勝者となったオーブにとっては戦犯なのだ。
 シンにはプラントに家族や頼るべきものがいない。
 アスランはもし戦争責任を叫ぶ声が上がっても、イザークの身分と立場なら彼を守ってくれると判断したのだろう。
 そういうわけでイザークはシンと引き合わされたわけだが、その時の彼は今にも消え入りそうな儚い存在だった。
 目に光はなく、ただぼんやりと虚空を見つめる幼い少年。
 これが本当にデスティニーのパイロットなのかといぶかしみながら、イザークはとりあえずシンを自宅に連れ帰った。
 口数が少ないのは敗戦のショックだろうと考え、話は次の日にでもすればいいと思ったのだ。
 ところが、シンはその日のうちに高熱を出して倒れてしまった。
 病人の世話などしたことのないイザークは当然慌てふためき、
 悩んだ挙句に母エザリアを呼び寄せて看病を手伝ってもらったのだ。
 それがシンよりももっと厄介な存在になろうとは、今朝になるまで思いもよらなかったが。

 「で、そのシン・アスカだっけ?もう体の調子はいいわけ?」
 「・・・身体の方はな」
 「?」
 ―――身体の方は大丈夫。
 何だかその言い回しが気になったディアッカだったが、突然の来客のためにそれに関する質問は断念された。
 「・・・失礼しますっ!」
 「シホ」
 エースの証である赤の軍服をまとった女性兵、シホ・ハーネンフースだ。
 赤服であることはもちろん、優秀で気配りがきいて美人の彼女はジュール隊の華である。
 ・・・が、今朝の彼女は顔を不機嫌に歪め、恨めしそうにイザークをにらんでいる。
 その迫力にディアッカはとっさに後ずさり、イザークも怪訝そうに彼女を見返す。
 するとシホはつかつかとデスクに歩み寄り、メモ用紙のようなものをばんっ、と叩きつけた。
 「んなっ・・・」
 「ご要望のものです」
 上司に対するものとは思えないその行為に、イザークとディアッカは言葉を失う。
 何かを怒っているらしいが、それを差し引いてもイザークを慕っているシホのものとは思えない行動だった。
 唖然としている二人をよそに、シホは「失礼します」と言って部屋を去ろうとする。
 そこでようやく我に返ったイザークがデスクを乗り越え、出て行こうとする彼女の手を掴んだ。

 「待てシホ!お前、何だその態度は!?」

 ディアッカが知る限り、二人は恋人同士だ。
 これがまた、傍目には苛々するほど不器用な二人で・・・。
 とにかく、イザークは母親には弱いがシホにはもっと弱い。
 だが・・・。
 ―――かといって、何でも許容してやれるわけないよなぁ。
 特別扱いはできない。
 己に厳しいイザークは部下にも厳しい。
 恋人であっても部下であるなら同じだ。
 そこもまたイザークの不器用さを表しているのだが。

 「言いたいことがあるならちゃんと言え!」
 気の弱いものならすくみ上がってしまうだろう眼光と大きな声。
 しかしシホは臆することなく果敢に怒鳴り返した。
 「言ったって聞きはしないでしょう!?」
 「なんだと?」
 「ジュール隊長の今の関心事は、偉大なるラクス様の善政と、
 可哀相な戦争被害者の男の子を救うことですものね!」
 「何が言いたい?はっきり言えと言っているんだ!」
 「そのメモに、ルナマリア・ホークの住所と連絡先、両親の名前が書いてあります。
 ラクス様の護衛をしながらでしたが、調べるのに何の苦もありませんでした。なぁんにも。
 早く連絡して差し上げたらいかが?そうしたら肩の荷が下りて心置きなく私とラクス様の護衛を交代できますよ」
 「シホ・・・?」
 さすがのイザークも言葉をつまらせる。
 シホはまくし立てているうちに、黒い瞳に見る間に涙を溜めていったのだ。
 上目遣いでにらまれたままぼろぼろ泣かれては、誰だって悪いことをした気になって戸惑うだろう。
 「おい、シホ・・・」
 「イザークの、バカッッッ!」
 「ぶっ・・・!」
 「イザーク!」
 シホが持っていたカンペンがイザークの顔に直撃し、驚いたディアッカが駆け寄る。
 そしてシホは弾丸のように部屋を飛び出すと、廊下を猛スピードで走り去ってしまったのだった。
 

 
 「それは両方が悪いわねぇ」
 「・・・両方、ですか」
 ところかわって、再びジュール邸。
 まだ日は高い。
 イザークはエザリアが煎れてくれたお茶とクッキーを食べながら、
 部下であり恋人でもある女性との間に起こった出来事を話していた。
 額にはカンペンをぶつけられた時にできたあざがある。
 結局その傷が朝からの頭痛とあいまって仕事にならず、ディアッカの勧めで早退してきたのだった。
 「俺にはあいつが何に腹を立てていたのかさっぱり分からんのですが」
 「あら、分からないの?」
 「分かるはずないでしょう。昨日までそんなそぶりはなかったんですよ」
 「そりゃそうでしょうとも」
 「はあ?」
 どうやらエザリアは自分と違ってシホの怒りの原因が分かっているらしい。
 まだずきずきと痛む額を手の甲で冷やしながら、イザークは母に先を促した。
 「あなた、一ヶ月前に私の屋敷に通信を入れたわね」
 「そうでしたっけ?」
 「ええ、よく覚えていますとも。そうそう、確か水曜日だったわ。私は刺繍をしてたのよ。
 上手くできたでしょうと見せてあげたのに、あなたったら『そんなことはどうでもいい』なんて言ったわね」
 「・・・あ、はあ?」
 エザリアが言いたいことの意図が見えず、イザークは首を傾げるばかりだ。
 するとエザリアは呆れたように肩をすくめた。
 「まだ思い出さないの?あなた、私に何を質問したの?」
 「質、問・・・しましたっけ?」
 「しましたとも!・・・『一ヵ月後、知り合いの女性の誕生日なんですが、何を贈ったらいいでしょうか』って」
 「・・・」

 しばし間の抜けた顔で沈黙した後、イザークは携帯を取り出すために乱暴に鞄をまさぐった。



 耳に届いた話し声に、シンは音を立てないよう窓を開けた。
 一階のテラスで、プラチナブロンドの美男美女が談笑している。
 ―――イザークさまと、エザリアさま。
 シンが二人から自己紹介をされたのは今朝のことだ。
 綺麗な姉弟・・・だと思っていたら、母子だといわれた。
 この家に来てからもう幾日か経っているが、昨夜遅くまで熱が下がらず、自分はずっと寝込んでいた。
 どうしてザフト兵であるはずの自分がここに来たのか、
 そしてここにいなければならないのかということもまだ知らされていない。
 何日も寝てばかりでぐったりしていたこともあり、考える気力も沸かなかった。 
 窓から聞こえるイザークの声は何か困っているようで、逆にエザリアは面白そうに笑っている。
 「どうだったの?」
 「電源切られてます・・・」
 「あらあら」

 一体何について話しているのだろう。
 とりわけすることも思いつかなかったシンは、窓の淵に座って二人の話に耳を傾けた。

 「シホさんの態度も悪いけど、あなたも鈍いわね」
 「戦後処理とか、いろいろあったから・・・」
 「私に言い訳しても仕方ないでしょ」
 「・・・はい」

 シホ?初めて聞く名前だ。
 二人の知り合いだろうか。

 「ところで・・・」
 笑いやめたエザリアの声が真剣味を帯びた。
 「例のお嬢さん・・・ルナさんだったかしら?連絡は取れたの?」
 「ルナマリアです。ルナマリア・ホーク。シホが調べた住所を元にディアッカが連絡を入れました」
 
 ―――ルナマリア。

 シンは、とっさに悲鳴を飲み込んだ。
 ルナ、ルナ・・・。
 どうしてだか分からないが、冷や汗が出て、体が震えた。
 ルナ・・・インパルスを・・・守らなきゃ。
 守らなきゃいけないのに。
 どうして自分はこんな所にいる?

 「実家に戻っています・・・いえ、『連れ戻された』の方が正しいようです」
 「ルナマリアさんのご両親が?」
 「はい。外出も禁止しているようですね」
 「酷いわ。どうして?」
 「どうもデュランダル前議長を戦犯と認識する声が高くなっていますから・・・。
 彼女はミネルバのクルーでインパルスのパイロットでしたし」
 「まさか・・・昔のあなたのように裁判にかけられるのでは・・・」

 何で?
 何で?
 何でこの人たちがルナの話をしているの?
 議長が戦犯?
 ルナが裁判?
 何でそんな話になっている?
 怖い。
 怖い、怖い、怖い!

 「いえ、その心配はありません。ラクス・クラインはそれだけは断固阻止すると明言していました。
 それに議会も下手に責任問題を取り上げれば自分たちの首を絞めかねませんから」
 「あらそう。『天下のラクス・クライン』が言うなら安心ね」
 「・・・母上」
 「冗談ですよ。・・・それで、彼女とシン君を会わせてあげられないの?」
 「ディアッカがシン・アスカの名前を出した途端、両親は通信を切ったそうです」
 「まあ・・・」
 「シンと繋がりがあることは不利だと考えているんでしょう。
 せめて彼女がシンと会いたいかどうかという真意を確認できればいいんですが」
 「会わせてあげたいわ」
 「ええ」
 「戦争が終わって平和になったのに、どうして大切な人と会うのがいけないことなんでしょうね」
  
 シンは床へと崩れ落ちた。
 身体の震えが止まらない。
 ざわざわと、聞こえるはずのない雑音が頭に響き渡っている。
 ―――戦争が終わって、平和になったのに・・・
 「う・・・っ、ううう・・・」
 戦争が終わった。
 何もかも、終わった。
 「うあ・・・、あああっ」 
 思い出した。
 自分は負けた。
 アスランに、フリーダムのパイロットに。
 力を手に入れ、挑んでもかなわなかった。
 そして、それよりもさらに圧倒的な力で叩きのめされた。
 守りたいものを、また守ることができずに・・・。

 「ーーーーーーーーーー!!!」

 何と叫んだかは分からない。
 誰かの名前だったような気がする・・・。
 とにかくシンは絶叫し。
 気を失った。



 
2005/12/31

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