ホワイト
「まさか…」
倒れ伏したままの背中を見ながら、シホは硬直して動けなかった。
どうしてルナマリアの異変に気付かなかったのだろう。
早く医療班を呼んで治療させなくては。
まだテロリストが味方のふりをして潜んでいるかもしれないのなら、ディアッカと調べ直さないと。
そんなことがぐるぐる頭を回っているのに、何一つ行動に移せない。
「い、イザーク!」
だが瞬きすら忘れていたシホの口から再びその名前を呼ぶことができたのは、うつぶせていた彼の身体がむくりと起き上がったからだった。
呪縛が解けたようにふらふらと歩み寄れば、撃たれたはずのイザークは重傷を負った様子もなく、
下敷きになっていたシンの身体を起こしてやっているところだった。
「イザーク…平気、無事…なの?」
茫然としながら尋ねたシホを振り返り、イザークは乱れた銀髪をそのままに笑った。
「ボディアーマーは当然の備えなんだろ?」
「…」
答えが分かったのと安堵とで、シホはその場にへなへなと座り込んでしまった。
人が撃たれて、ここまで動揺したのは初めてだ。
今更ながら市街で撃たれた自分を心配しつつも腹を立てていたイザークの気持ちが分かったような気がした。
彼がボディアーマーを着けていたことはそんなに不思議なことではない。
むしろそんなことすら失念するほど気が動転してしまった己を自覚し、赤くなってしまった頬を隠すようにそっぽを向いた。
「イザーク、…イザーク、さま!」
イザークを危機から救った声…。
思っていたよりは低い、けれどどこか舌っ足らずなそれにシホも面を向ける。
イザークがシンの服を汚す砂や灰を払ってやりながら立ち上がらせた。
「シン、お前声が出るようになったのか?」
しっかりとした足取りで立ち上がったイザークの身体にシンはぎゅうっ、と抱きつく。
本当の兄弟みたいだと見ていたシホも微笑ましい気持ちになった。
シンがイザークのために声を取り戻したのならばなおさら二人の間にある絆を思わざるを得ない。
イザークも悪い気はしないのか、苦笑いをしながらその黒髪をくしゃくしゃとなでてやっていた。
シンを親衛隊の一人に預けると、イザークとシホはディアッカに拘束されたままのルナマリアへと近づく。
シホには彼女がどうしてこんな凶行に及んだのかさっぱり見当がつかなかった。
異国に慣れず戸惑う自分を優しく助けてくれたし、他の隊員たちやディアッカ、イザークも彼女を信頼していたはずだ。
シンだってとても懐いていたのに。
それがどうして…。
「裏切り者はお前だったのか」
アイスブルーで鋭くねめつけるイザークを、ルナマリアは静かに見返した。
「命令は第一皇子からか。確か父親が兄貴の側近だったな…テロリストを支援していたのも兄貴なのか?」
フラガ第一皇子…。
思わぬ名前にシホはごくりと唾を飲み込んだ。
イザーク同様側室を母に持ち、「ザラ」の称号も父王の愛からも遠ざかっている皇子の一人。
どうやら黒幕はパトリック王ではなさそうだが、それでも血縁者の一人に変わりはない。
「どうなんだ、ルナマリア」
「…殿下、あなたの《黒曜石》は本当に幸運の女神ですね。あなたは彼女に護られている」
ルナマリアのブルーバイオレットの瞳が戸惑うシホを、そしてさらに離れたところにいるシンを映した。
狙撃を台無しにされた怒りでも憎しみでもない、むしろ止めてくれたという感謝と慈しみが滲むそれにシホは胸が痛くなる。
自分やシンに対するあの笑顔や優しさは嘘ではなかった。
彼女もまた、肉親との情の間で苦しんでいたのだ。
「そうだ、俺は護られている。…バカな真似をしたな」
短い会話で、イザークは彼女を詰問しても無駄だと察したようだ。
「すべては神の思し召すままに…」
深々と頭を下げたルナマリアをディアッカが神妙な表情で建物の外へと連れていく。
やはり憂いを帯びた表情で見送るイザークの傍らにシホも寄り添った。
そのまま裂けたアーミージャケットをそっと指でなでた。
「痛いでしょ?」
「すごく痛い…」
平気な顔をしているが、あの距離で撃たれれば着弾のショックだけで結構な痛みになる。
「手当てしてあげる」
「慰めてくれるのか?」
ルナマリアのことはやはり辛いらしい。
先程の刺すような目つきはどこへやら、弱った顔を見せられてシホも若干うろたえた。
「…いいわよ」
短く答えれば、予期していなかったとでもいうように驚いた表情を向けられる。
なによ、と照れ隠しに唇を尖らせれば、今度は心底嬉しそうな顔になった。
「急に背中が痛くなってきた。念入りに手当てしてくれ」
「分かったから服を脱ぐのは部屋に戻ってからにしなさい」
服に手をかけ今にも押し倒そうとする男の足のすねを蹴り上げると、シホは待機しているヘリの元へとさっさと歩みを進めた。
深夜から明け方にかけて、事件の後片付けと取り調べの準備が行われた。
ルナマリアをはじめ投降したテロリストたちはディアッカの護衛のもと一足先に護送された。
そのあとは離宮の詳しい被害状況を調べ、当面の片づけをする。
夜食とも朝食ともなる食事を終えて一息ついてもシンは興奮してイザークの傍を離れなかったため、仕方なくイザークが自分の部屋に寝かしつけに行った。
シホも軽くシャワーを浴び、すっかり日が高くなってからようやく疲れた体をベッドに潜り込ませた。
しかし目を閉じるのとほぼ同時にドアがノックもなしに開き、入ってくる気配がある。
「自分のベッドで寝なさい」
「シンに占領された」
シホが起き上がるより早く、イザークの長身が覆いかぶさってくる。
疲れているんだから勘弁してほしいと言外に含ませても、相手は気にする様子もなく首筋に吸いついてきた。
「シンと一緒に寝ればよかったじゃない」
「あいつは寝相が悪い。それにあれでも12だ。添い寝する歳じゃない」
「私だってそうよ」
蹴ってやると足をつきだせば、逆に足首を取られて脛に口づけられた。
ざわざわした感覚が下から這い上がっていく。
「寒いんだ、温めろ」
「そんな、充分あつい…」
慌てて口元を押さえる。
このままではとんでもないことまで口走ってしまいそうで怖かった。
「シホ」
イザークの体温が伝わってくる。
これを失うところだった。
「シホ…」
「イザーク、」
シホの手が伸ばされて、銀色の髪をかすめた。
意図を察して体勢を変え、唇を吸う。
「愛してる」
優しく諭すように囁く。
「あいしてる、わたしを?」
「ああ」
「必要だと、言って。身体だけじゃなくて」
肉欲に堕ちるのは簡単なことだ。
それだけでは嫌だった。
信じていたものに裏切られ一度全てを無くしたからこそ、この腕の他に還る場所がないと言ってほしかった。
これまでの過去もプライドも全てかなぐり捨てて、全てをイザークに預けたい。
そうすれば、彼に捨てられたとしても簡単に死を選ぶことができる。
「お前が必要だ、シホ。…お前が欲しい、ずっとそばにいてくれ」
駆け引きも何もない問いかけに、イザークも言葉を飾らなかった。
何度も聞いた告白。
それが真実だとようやく納得し、シホは男の首に両腕を回した。
砂丘をランドクルーザーが疾走している。
凹凸に合わせてアップダウンを繰り返すそれは一見滑らかに移動しているようだが、運転している者の手が狂えば簡単に横転してしまう。
スカーフで鼻まですっぽりと砂を避けている助手席のシホに対し、運転席のディアッカはいつもの軽装にサングラスだけだった。
あの離宮でのテロリスト一斉検挙以来、シホはディアッカが推挙したニコル・アマルフィという少年と行動を共にしていた。
テロリストの聞き取り調査やこれまで以上の警備の強化などといった激務に追われ、イザークともあの夜以来はベッドを共にしていない。
ディアッカと話すのも一週間ぶりだった。
「ルナマリアは昨日のうちにイザークの屋敷に移った」
拘束されて以来警察の事情聴取を受けていたルナマリアは、秘密裏に釈放されていた。
「大丈夫だった?」
「案外落ち着いてたぜ」
イザークはルナマリアを自ら尋問するという名目で身柄を引き取った。
かといって取り調べや尋問する気は毛頭なく、むしろムウ派の名前が出ることを恐れる者から保護する意味合いが強い。
今のところ拘束場所はイザーク、ディアッカ他数名にしか知らされず、シホの耳にも入っていない。
不自由な思いはするだろうが、格別と言っていいほどの取り計らいだった。
「シンがルナマリアに逢いたがってたわ」
「ルナマリアの方もシンの様子聞いてたぜ。弟みたいに世話してたもんな」
ムウ派との決着がはっきりつけば、いつか彼女も自由になれるだろう。
その日が早く来ることを願うだけだった。
「見えてきたぞ」
ディアッカの声に顔を上げれば、そこに大きなホテルが建っていた。
さらに向こうには飛行機場も見える。
このホテルはイザークが管理を任されているもので、シホが初めてプラントに来た時監禁されていたのもこの一室だったらしい。
「あのホテルは隠れたリゾート地なんだ。周囲に他に建物がなくて、砂漠に落ちる夕日が見れるからな」
「イザークがそんなロマンチストなんて思えないけど」
「俺もそう思ってたさ。仕事にしか興味のない朴念仁だってね」
「…」
「そのイザークがだぜ?惚れた女のためにこんな超多忙スケジュールを縫って二泊三日のデートを計画するなんて…可愛いじゃねーか」
ディアッカは口元を緩める。
「…そのデートの直前に欧州の外相と同じホテルで会談をするっていうのがイザークらしいけど」
ホテルの前ではイザークが待っているのが見える。
「覚えとけよ、シホ。恋は人を変えるんだぜ」
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2010/03/06