アオイ
音楽室に、澄んだピアノの音が響いている。
その音色はまろく、美しい。
もしそれを聞いている者がいたら、その音こそがきらきらと輝いているのではと錯覚したことだろう。
しかし、その音楽室にはたった一人・・・ピアノを弾いている人物の気配しかなかった。
誰の喝采も、誰の慰めも必要ないかのように。
その人物の青空色の瞳は一心不乱に鍵盤と楽譜とに向けられている。
制服からその人物が少年だと分かるが、白と黒の鍵盤の上を踊る指は長くて繊細だった。
その顔立ちもまた線の細さを感じさせる美しいものだったが、
きつく結ばれた唇ときりっとした眉が少年らしい対照的な調和を作っている。
その細い肩が動く度、束ねることなく流された長い金髪もさらさらと揺れた。
少年の名前はレイ・ザ・バレルという。
このSEED学園の中等部三年生で、この春に転入してきたばかりだった。
レイは北欧のとある国で生まれ、五歳までそこで過ごした。
両親はそこそこ名の知れた貴族出身らしい。
互いに仕事が忙しく外国中を駆け回っており、遊んでもらった記憶などなかった。
やがてイギリスの寄宿学校に入れられ、貴族階級に相応しい教育を受けることになったレイだが、
一つだけ問題を抱えていた。
小児喘息のため、あまり身体が丈夫ではなかったのだ。
普段生活しているだけなら問題はないが、
激しい運動はできないし風邪をひきでもしたら軽いものだったとしても一大事に繋がる。
それでも両親はレイに対して関心を抱こうとはせず、それぞれの仕事に躍起だった。
レイは孤独を抱えながらも、自分が文句を言うには贅沢すぎる環境を与えられていることは知っていた。
だから寂しいと子供らしい駄々をこねることもなかった。
事情が変わったのは半年ほど前のこと。
両親がとうとう離婚したのだ。
レイは戸籍上は父の方に引き取られたが、母の母国だったイギリスにはいられなくなった。
寄宿学校も卒業していない・・・正直途方にくれた。
そんな時、父の友人の一人の「ある人物」がレイを引き取りたいと申し出てきた。
そうして今、レイはこのSEED学園にいるわけである。
ピアノと楽譜を片付けて音楽室を出たレイは、
部活禁止日でひっそりとしている校舎の出口に向かって早足で歩いていた。
これから音楽室の鍵を教務課に返して寮に戻るとなれば、かなり遅い時刻になってしまう。
「つい夢中になってしまったな・・・」
腕時計を確認して眉を寄せた。
少し眩暈がする・・・そういえば、今日は朝から体調が悪かった。
寮のルームメイトは顔色が悪いから無理はするなと忠告してくれたのに、
せっかくピアノに集中できる月二回のこの日のこの時間を諦め切れなかった。
ルームメイトの心配を煽ることは間違いないと思うと申し訳なくなってくる。
それに、ピアノを弾くことに熱中して集中力を使い果たした身体は休息を求めていた。
ようやく出口をくぐり、校舎の外に出る。
俗に「芸術棟」と呼ばれるこの棟から教務課のある棟までは渡り廊下を歩かなければならない。
と、目的の方向に顔を向けたレイは「うっ」と呻いた。
傾きかけた太陽の光が見えたと思った途端、視界が白く染まり、次いで黒くなる。
耳鳴りがして、足元がおぼつかなくなった。
「あ・・・れ?」
どさっ、と持っていた鞄の落ちる音がする。
しかしそれもどこか遠い場所で起こっているかのように聞こえた。
「・・・やばい」
貧血だろうか。
自覚した途端、胸がむかむかして気分まで悪くなってくる。
こんな誰もいないところでやるなんて・・・。
今更後悔しても遅い。
レイはとにかく立ち上がれるようになるまで待つことにした。
しゃがみこんだ姿はあまり格好いいとは言えないが、かといって地面に横になるわけにもいかない。
学校内では携帯はご法度のため、真面目なレイは持ち歩いていない・・・助けも呼べない。
どうしたらいいのか、とっさに思いつかなかった。
「ねえ・・・どうかしたの?」
誰かの声が、聞こえた気がした。
どれほどしゃがみこんだまま呆けていたのだろう・・・時間の感覚が曖昧だ。
「ねえ君、聞こえる?」
女の子の声、だ。
さっきより近くに聞こえるが、身体は何だかふわふわしたものに包まれているような気がして正体を感じない。
当然少女の声にも応えることができなかった。
「顔を上げてみて。・・・気分が悪いの?」
するとぐらりと身体が揺れ、つられるように首がかくんと上向いた。
肩に何か乗っている・・・少女の掌、だろうか?
ぼんやりした視界に、東洋人独特の顔立ちをした黒髪の少女が移る。
「だ、大丈夫?」
自分はよほど酷い顔をしていたのだろう。
相手は心配そうな表情で身体を寄せてきた。
意外にも力があるその女子学生に肩を抱かれ、ふわっと身体が持ち上がる。
「保健室行こう?送ってあげるね」
すうっ、と意識が持ち上がる。
反射的に瞼を開け、天井を仰いだ。
・・・見慣れない天井だ。
少なくとも見知った寮の天井ではない。
辺りは暗かった。
あれからどれくらい時間が経ったのか・・・日が完全に落ちたのは明らかだ。
そんなことをぼんやり考えながら、何度も瞳を瞬く。
ゆっくりとだが、意識がはっきりとしてきた。
「・・・ぁ」
ここは、と口にしたつもりが、喉がからからで音にならなかった。
だが、それはすぐ近くにいたらしいある人物の耳には拾うことができたようだ。
「レイ!目が覚めたのか?」
「・・・シン?」
まだ狭い視界の中に飛び込んできたのは、赤い瞳をした少年。
ルームメイトのシン・アスカだ。
するとシャッ、という乾いた音がすぐ近くで聞こえる。
カーテンの音・・・?
そこでようやくレイは、自分がいる場所が保健室のベッドの上だと言うことに気が付いた。
―――保健室行こう?送ってあげるね
今更ながら、あの少女の言葉が現実化してくる。
あの黒髪の女子生徒がここまで運んでくれたのだ。
「ルナ、レイが起きた」
「本当?じゃあ丁度よかったわ」
「・・・ルナマリア?」
今度こそ声が出た。
幾分か広がった視界に、赤い髪をショートカットにした美少女の顔が映る。
同じクラスのルナマリアだ。
「レイ、起きれる?ジュース持ってきたから飲みなさいよ。水分補給」
「・・・どうし、て・・・二人とも、ここに?」
「そんなの、あんたが倒れちゃったからに決まってるじゃない」
「・・・」
あんたのせいよ、ときっぱり言われるが、レイはいまいちぴんとこなかった。
確かにシンは寮のルームメイト、ルナマリアはクラスメートだ。
ついでに言うと、この二人は学年こそ違うが部活が同じと言う共通点がある。
だからシンとルナマリアが共に行動している点はともかく、
転校して間もないレイが倒れようがどうしようが、彼らにはさして問題ないことのように思えるのだが・・・。
「シンがね、『レイが帰ってこないよー』って泣いてたから。仕方ないから一緒に探し回っちゃったのよ」
「そ、そんなこと言ってないって!嘘だぞ、レイ!!」
シンは必死になって、朝から顔色が悪かったのが気にかかったからだと訂正する。
すでにレイが鍵を閉めて出て行った音楽室の前で、ルナマリアと出くわしたのだそうだ。
「ま、私も調子悪そうだなーって気になったのよ」
「鍵かかってたから・・・教務課に行ったら丁度ヴェステンフルス先生が・・・」
「レイが保健室にいるって連絡来たって」
「俺が寮まで連れ帰るって行ったら、任せるって言われた」
「酷いわよねー。自分のクラスの生徒の様子くらい気にしろっての」
ヴェステンフルスとは、レイとルナマリアの担任教師の名前だ。
ルナマリアは彼の生徒に対する態度を淡白過ぎると非難する。
だがレイに言わせれば、あの一癖も二癖もありそうな男に抱きかかえられて寮まで送ってもらうなんて、
想像するだけで鳥肌ものだ・・・来てくれなくて、むしろ感謝したい気分だった。
「お前たち、今日は部活が休みだろう?」
手渡されたジュースを半分ほど飲み干した後で、レイはおずおずと尋ねてみる。
水泳部に所属し毎日厳しい練習に耐えている二人にとって、今日は貴重な休息日のはずだ。
なのに自分のせいでそれを棒に振ってしまったとあっては、申し訳ないどころの話ではなかった。
しかし二人の返事はあっけらかんとしたものだった。
「そうよ」
「そうだよ」
「・・・わ、悪かったな。せっかくの休みを」
「しょうがないよ。レイが調子悪かったんだから」
「っていうか、体調管理くらいしっかりしなさいよね」
「・・・」
自分の面倒を見るのがさも当然かのように振舞う二人に、レイはそれ以上言葉を重ねることをやめた。
もうあたりは暗い。
二人とも寮生だということもあるが、こんなに遅くまでレイが目覚めるまで待っていてくれた。
せっかくの部活の休みをこんな自分のために潰されても、大して気にした様子もない。
何だかそれが嬉しくて、レイは緩みそうになる顔を慌てて長い髪で隠した。
その時。
「ちょ・・・ちょっと!落ち着いてくださいよッッ!」
「これが落ち着いていられるか!」
「静かに!バレル君はまだ寝てるんですってば!」
「どかんかアズラエル!」
急に騒がしくなったカーテンの外側に、三人は揃って怪訝な顔をした。
二人の男が外で言い争っているようだ。
一人はもちろん、この保健室を管理するアズラエルだろう。
そしてもう一人は・・・。
「!!」
嫌な予感が、レイの身体を駆け抜けた。
とっさにルナマリアの手を引っ張り、かばうようにしてシーツの上に伏せる。
ほぼ同時に。
「レイーーー!お父さんが来たぞ、無事かーー!!?」
ルナマリアがバックにしていたカーテンがひらめき、一人の男が躍り出る。
ピンク色のフリルのエプロンをしたその男は、黒い髪をたなびかせて大ジャンプをしていた。
スローモーションのようなそれは、弧を描いてレイとルナマリアが伏せていたベッドを飛び越える。
そのままその身体は反対側にいたシンへと向かった。
「あぶねっっ!」
さすがのシンは抜群の運動神経でそれをよけ切る。
そして・・・。
ガシャーーーッッッン!!
「ぎゃーーっっ!理事長ーーー!!」
悲鳴を上げたのはアズラエルだ。
部屋の造りを勘違いしていたのか、ただ焦っていただけか、はたまた何も考えていなかったのか・・・。
理事長と呼ばれたフリルエプロンの男は、窓を突き破って中庭へと突き抜けた。
ここが一階だったのは果たして幸いと言っていいものだろうか。
救急車、救急車ー!と慌てまくるアズラエルに対し、シンとルナマリアは状況に付いて行けずフリーズしている。
窓の外の彼は、多少の怪我は負っているだろうが死にはしないだろう・・・多分。
唯一冷静なレイは、申し訳程度に残っていたジュースの中身を飲み干した。
フリルエプロンの彼・・・SEED学園の理事長ギルバート・デュランダルこそ、レイを引き取ってくれた「大恩人」だったりする。
2010/03/02