シュバルツ 〜必然〜
せっけんの香りが漂うバスルーム。
レイはイザークに頭を洗ってもらっていた。
もちろんレイだって赤ん坊ではない。
頭の洗い方くらい知っている。
だが、イザークはレイの髪を触るのが好きだった。
3日に1回は髪を洗わせろと言ってレイをバスルームに連れ込み、髪をきれいに洗ってくれる。
その洗い方がまた上手いので、レイも遠慮なく好意に甘えていた。
それに、この時間はイザークと唯一会話ができる時でもある。
評議院の手伝いという慣れない仕事のため、イザークは家でも書類やPCとにらめっこをしていることが多い。
でも、バスルームでレイを頭をいじっているときの彼は妙に機嫌がいいのだ。
―――お前、ペット扱いされてんじゃねぇの?
ディアッカにはあきれ気味にこう言われた。
別にレイはそれでもいいと思っている。
イザークのこんな優しい表情を独り占めできるのだから。
「随分髪が伸びたな。うっとうしくないか?」
「ええ。別に気になりません」
「そうか」
「イザークさんはいつも綺麗に切ってますね」
「これ以上長いと気になって仕方ないんだ」
「短くしないんですか?」
「してたときもあったんだが・・・長かったときよりも女と間違われることが多いからやめた」
「・・・」
「なんだ?」
「見てみたい」
「するか、馬鹿」
軽く小突かれる。
大げさに痛い、と言うと、くすくす笑われた。
こんな会話ができるのも、この特別な空間だけ。
それにレイの髪を丁寧に洗ってくれるイザークの指は、細くてひんやりしていて気持ちいい。
いつもより笑顔の多いイザークにつられてレイも機嫌がよくなる。
ところが、その日は思わぬ邪魔が入ってしまった。
他愛もない会話をしながらイザークの綺麗な顔を見ていると、彼の後ろからにゃう、という鳴き声が聞こえた。
イザークはレイの髪を洗っていた手を止め、足元に視線を落とす。
レイの位置からは見えないが、グレーの子猫がイザークの足にじゃれついているだろうことは容易に想像できた。
「リリィ、お前はレイの後だ。大人しくしてろ」
イザークが困ったような顔で咎める。
泡だらけの手で猫を触るのは気が引けるのだろう。
レイが庭で見つけたこの猫は、めでたく名前を拝借してすっかり家族の一員になっていた。
イザークは子猫をすぐに里子に出すつもりだったのだが、なかなか貰い手が見つからなかった。
ディアッカもいろいろ心当たりをあたってくれたらしいが、上手くいかなかったようだ。
結局諦めたイザークが、レイが面倒を見ると言う条件で飼うことを許可したのだった。
実は「リリィ」という名前をつけたのはディアッカだ。
つい先日までイザークは「ネコ、ネコ」と呼んでいて、レイもいい名前が思い浮かばずそれに習っていた。
それを知ったディアッカが、さすがにそれはかわいそうだろうと命名してくれたのだ。
確かエザリア様って百合の花が好きだったよな、だったら「リリィ」にすればいいじゃん。メスだし。
イザークもレイもそういうことに関するセンスはないので、その提案に従ったのだった。
「こら、リリィ!くすぐったいだろ、やめろ!」
イザークがしかりつけても、リリィは彼の足にじゃれるのをやめようとしないらしい。
餌やトイレの掃除など大抵の世話をしているのはレイなのに、なぜかリリィはイザークがお気に入りなのだ。
イザークはやれやれと息を吐きながらシャワーのコックをひねる。
熱い湯が流れる音がし、それがレイの頭にかぶせられた。
予告のないそれに、レイが小さく呻く。
イザークはそのままシャワーのホースを手渡してきた。
いつもは泡を洗い流すまでをイザークがやってくれるのだが、今日は一人でやれということらしい。
理解すると同時にレイは残念な気分になる。
イザークを独り占めできる時間が終わったのだ。
しかも、自分が拾ってきた猫が原因で。
でも文句を言って嫌われたくはないので、黙ってそれに従う。
自分が憮然として頭を洗っている横で、イザークはぬるい湯を洗面器にためてそこにリリィを入れた。
ペット用のシャンプーで、レイと同じように洗ってやる。
その顔を、覗き見た。
気持ちよさそうにしているリリィを見る彼の表情は、先程同様優しい。
―――お前、ペット扱いされてるんじゃ・・・
リリィを見るイザークの表情は、先程の自分に対してと同じに見える。
なんだか、面白くなかった。
「お前のせいだからな・・・」
着替えたレイは、自分と一緒にバスルームから出たリリィの体をタオルで拭きながら口を尖らせていた。
せっかくのイザークさんとの貴重な時間を、と。
グレーの毛を拭く手に気持ち力が入る。
するとさすがに乱暴すぎたらしく、リリィがうう、と唸った。
慌てて手を止めると、リリィはレイの元を逃げ出してしまう。
そのまま恨みがましそうな瞳でにらまれた。
「・・・悪かった」
大きく息を吐く。
まだ気持ちが治まらなかったが、これ以上動物に八つ当たりしても仕方ない。
レイは湿ったタオルをたたみ、洗濯機へと放った。
しばらくすると、バスルームからイザークが出てきた。
レイと入れ替わりにシャワーを浴びていたのだ。
「リリィはどうした?」
「逃げられました」
憮然とした顔で言うと、どうしてお前には懐かないんだろうな、と笑われた。
イザークはバスローブをまとったままレイのそばに腰掛ける。
レイはどきりとした。
「着替えないんですか?」
「ん・・・後で」
着替えてくれ・・・と心の中でつぶやく。
今の自分の格好が他人にはどう映るか考えたことはあるのだろうか・・・いや、ないだろう、イザークだから。
ディアッカはよく何もせずに同室で親友を続けていられたものだ。
今回ばかりは本気で彼を尊敬した。
ちらりと横目で隣のイザークの様子を伺う。
バスローブをまとったまま長い足を組んでいるイザークは、片手で濡れた頭を拭き、
もう一方の手でテレビのリモコンをいじっていた。
図らずも視線が胸元に下りる。
直前までシャワーを浴びていた白い肌はほのかに赤く染まり、殺人的に艶っぽい。
無防備すぎる・・・。
こちらのことも考えて欲しいものだとあきれつつも、レイはイザークから目が離せなかった。
そんなレイに気づく様子もなく、イザークは思いついたように話しかける。
「もうすぐ入学式だな。準備はしているか?」
一瞬レイの心が冷える。
それでも務めて冷静に、はい、と答えた。
「そうか。しばらく会えなくなるな」
「・・・そうですね」
「週末には帰って来いよ。俺もなるべく空けておくから」
「いいんですか?」
「当たり前だ」
戦後の混乱でほぼ閉鎖状態のアカデミーだったが、先日再開が正式に決められた。
アカデミーは例外なく全寮制なので、レイも寮に移ることになる。
この家でイザークと暮らせるのも、あと僅かなのだ。
それが残念でならなかった。
「面倒を起こすな、といっても、お前は心配ないな」
「・・・」
「お前は頭もいいし、聞きわけがいいから」
「・・・」
「レイ?」
反応のないレイに、イザークは首をかしげる。
しかしどう勝手に判断したのか、すぐになだめるように言葉を繋いだ。
「不安なんだな」
「・・・少し」
「大丈夫だ。すぐに慣れる」
「人は、あまり好きじゃありません」
「それでも同じ年で、同じ志を持つ者と行動を共にするのは大切なことだ」
そうじゃない。
そんなことは分かっている。
「ここだと出会える人間も限られてしまうだろう」
別にかまわない。
「お前が人と触れ合うのが苦手なら、なおさら・・・」
そうじゃ、ない。
レイは、イザークの体に抱きついた。
シャンプーの残り香とイザークの体臭が混じって鼻孔をかすめる。
その甘さに一瞬眩暈がした。
「レ、レイ?どうした?」
イザークが上ずった声をあげている。
だが、それにはあまり危機感が感じられなかった。
気分でも悪いのか?などと能天気なことを聞いてくるイザークの声を遠くで聞きながら、
レイは、自分自身の大胆な行動に驚いていた。
しかしその一方で、やはりこうなってしまった、と妙に冷えたことを考える自分もいた。
「イザークさん・・・」
「ん?」
抱きついた手を緩めず、そして視線を落としたまま話しかけてくるレイ。
イザークは怪訝な顔をしながらも独り言のようなそれに耳をたてる。
「俺は・・・ギル以外の人にあまり慣れなくて」
「うん」
「触られるのも、嫌いです」
「・・・あ、ああ」
イザークは戸惑ったようにまわされたレイの腕へと視線を下ろした。
なら何故自分に抱きついているんだ、と聞きたいのだろう。
そんな視線を感じながら、レイははっきりと口にした。
「でも・・・あなたには、触れたい」
熱に浮かされたように、何かに促されるように。
それでもはっきりと、言った。
体温を感じる。
熱い・・・。
髪を洗ってくれた指はひんやりしていたのに。
重なり合った肌から感じるイザークの熱はとても熱かった。
シャワーを浴びたばかりだから?
鼓動も聞こえてくる。
自分のものなのか、抱きついているイザークのものなのかはっきりしない。
ゆっくり、視線を上げる。
イザークの顔が間近にあった。
アイスブルーが見開かれ、驚いた表情をしている。
てっきり怒り出すかと思っていたのに。
レイは期待を裏切られたような、それでいて嬉しくてたまらないような奇妙な感覚が湧き上がるのを感じた。
ああ、早く振り払って逃げてしまえばよかったのだ。
彼は、その機会を自分で失った。
もう欲望に抗うことはしなかった。
レイは腕の力を緩めぬまま、己の体重を前に倒す。
支えのない細い体は容易く後ろ向きに倒れてくれた。
そこで初めて、イザークの唇が何か紡ごうとする。
でも、もう遅い。
桜色に色づいたそれ。
気が付くと、それに己の唇を重ねていた。
back
2005/02/05