プリズム 〜雨音〜
雨が降っている。
しとしと、と空気を潤す水滴。
風はなく、温度も急激に下がることはない。
逆に蒸し苦しさもなく、丁度良い強さで地面を濡らし続ける。
優しい、優しい雨。
この雨があがるのは、あと30分後。
授業が終わり、課題も片付けて手持ち無沙汰になったときに雨が降り出すと、
レイはいつも貴賓室に向かうようになった。
最近では人工雨が降る時刻をチェックし、それに合わせて時間を空けるほど。
寮から貴賓室のある棟に向かう途中の連絡通路、
そこから見下ろせる中庭に咲く紫陽花が、雨に濡れているのを見る。
しばらくそれを眺めたあと、階段に登って貴賓室に向かう。
もともとこの棟の一角は人通りが少ないうえ、貴賓室は最上階のすぐ下なので目に付きにくい。
この静かな空間でピアノを弾くのだ。
耳に届くのは自分が奏でるピアノの音色と、聞こえるか聞こえないかの雨の音。
レイはただ楽譜にある曲を弾くだけでなく、作曲することもある。
今弾いている曲もそうだ。
イザークの母、エザリアのために作曲したもの。
それを弾いているうちにレイは少し違和感を感じ、楽譜を修正しようと鍵盤に置いていた指を止めた。
その時、ようやく人の気配があることに気付く。
今までここに人が来たことがなかったので、少し身を引きながら振り返った。
「・・・あ」
「すまない、邪魔したか?」
驚きと安堵にレイは詰めていた息を吐き出す。
一気に力が抜けた。
「イザーク・・・」
ここにいるはずのないイザークが、ドアにもたれかかるようにして立っていたのだ。
評議会議員の制服の上からコートを羽織っている。
彼は少し困ったような顔をしていた。
自分がレイの演奏を邪魔したのだと思ったらしい。
「続けていいぞ」
「いいえ・・・楽譜を直そうと思っただけですから」
「そうか」
イザークは組んでいた腕を解いてレイの元に歩み寄ってくる。
レイは椅子から立ち上がり、その手を取る。
「どうしたんです?こんな所まで・・・」
イザークがアカデミーに来る連絡など受けていない。
知っていたら迎えに行ったのに。
少し咎めを含んだレイの口調にイザークは苦笑した。
「世話になった教官に挨拶にな。何とか軍に戻れそうだから」
「そう、なんですか?」
「ああ、議長のお口添えで」
イザークが言った「議長」とはアイリーン・カナーバのことではない。
一週間前の3月10日、プラント臨時評議会は地球連合とユニウス条約を締結していた。
それによって臨時評議会は解散、新たな評議会が召集。
そしてつい先日、新評議会メンバーが正式決定され、
カナーバに代わってギルバート・デュランダルが新議長に任命されたのだった。
引継ぎが終了すればイザークも議員としての任を解かれる。
彼のことだから軍に戻るだろうとは思っていたが・・・。
「そのまま議員の仕事を続ければいいのに」
「デスクワークは性に合わん」
「・・・」
できれば安全なところにいて欲しい。
戦場などに出て欲しくない。
レイはそう願っている。
どれほど強い意志を持ち祖国のために戦っても、それを周りが認めてくれるとは限らない。
レイと初めて出会った頃のイザークがまさにそうだ。
大人たちの勝手に振り回され、その生命さえ不当に脅かされたのだ。
・・・二度とあんなことがあってはならない。
もう彼にあんな思いはさせない。
そのためにいま自分はここにいるのだと思っている。
だが。
この人の真っ直ぐすぎる気性が、安穏としていることを許さない。
それ以上の追求を避けるように、イザークは鍵盤へと視線をずらした。
レイが取っているのとは逆の手の指で、鍵盤の一つを弾く。
ポーン・・・と低い音が部屋に響き、雨の音に吸い込まれた。
「ニコルも・・・」
「はい?」
突然イザークの口から漏れた名前に瞳を瞬く。
無意識だったのか、イザークもつぶやいてから少し驚いたような顔をした。
そして懐かしむように笑う。
「ピアノが好きな同僚がいたんだ。あいつもお前と同じことしてたな」
「・・・」
「ピアノを弾きながら、途中で楽譜に何か書き込んで・・・
そしてまた弾いて、また書き込んで、を繰り返してた。
訓練のときと同じくらい真剣な顔でな」
「その人は?」
「死んだ」
レイはまずい、という顔をしたが、イザークはあまり表情を変えなかった。
「一生ピアノを弾いてればよかったのに・・・。戦場なんかに出るから・・・」
「・・・」
「臆病者のくせに・・・なんで仲間をかばって死んでしまうんだ」
「イザーク・・・」
イザークは無表情のまま、また「臆病者のくせに」とつぶやいた。
レイはニコルという人を知らない。
イザークは戦中での経験をあまり語らないし、レイも聞こうとしなかった。
それでも、イザークがその人の死をあまりに惜しんでいることが充分伝わってくる。
「臆病者のくせに」・・・彼が本当に臆病者だったのなら、己の生命を犠牲にすることなどなかった。
死なずに済んだ。
そういうことだろうか。
「イザーク、俺は臆病者ですよ」
「・・・なんだ、いきなり」
少し、イザークの表情が揺らいだ。
レイは取っていたイザークの手にキスをする。
「だから、死にません」
ここで力を手に入れる。
あなたを、守るから。
「だから、貴様は」
「はい」
「そおいうことを・・・真顔で言うんじゃないッ」
白皙の頬に、朱が指していた。
レイは微笑み、今度は彼の唇にキスをした。
「・・・おいっ」
イザークは一度目は甘受するものの、二度三度と唇を求めてくるレイに慌てる。
抱きつかれる不安定な姿勢ながら、ちらちらと入り口を気にした。
「誰かが来たらどうする?」
「誰も来ませんよ」
「俺が来ただろうが」
レイはそれ以上は無視し、またイザークの唇をふさぐ。
「ん・・・っ」
イザークの方が背が高いので、爪先立ちにならざるをえない。
するとレイは、イザークのコートの端を掴んでぐいっと引き寄せた。
その細い体を今まで自分が座っていた椅子に座らせる。
腰が引き気味だったイザークは、大した抵抗もできずに椅子の上に収まった。
しばし呆然とするイザーク。
一方目論見が上手くいったレイは、今度は服の間へと手を差し込む。
「こ、こら!」
性急なそれにイザークは我に返り、抵抗し出した。
確かにここは人通りがないのかもしれないが、かといって誰も立ち寄らないという保障があるわけではない。
こんなところを誰かに見られたら・・・。
その間にもレイはネクタイを解き、シャツのボタンをはずしていく。
この慣れた手つきは何なんだ・・・。
呆れながらその手首を掴む。
「お前、やっぱり性格変わっただろ」
「もともとですよ」
「・・・俺と住んでたときは猫かぶってた?」
「そんなところです」
そう言いながら掴まれたのとは逆の手で行為を再開しようとする。
そうはさせるか。
こちらも空いていた手で再度阻止した。
「嫌ですか?」
「嫌だ」
すがるように見つめてくるが、そんなものには騙されない。
ぴしゃりと言い返した。
「それじゃあキスだけ」
「・・・」
それも嫌だと言おうとしたが、相手の両手を掴んだまま向き合っているのだ。
断ったところで無駄だろう。
案の定、レイは返事を待たずに唇を寄せてくる。
ちらりとドアの方に目をやり、向こう側に気配がないことだけは確認しておいた。
外ではまだ雨が降っている。
少し薄暗い窓の外。
あと、10分弱。
それまで人工太陽は姿を見せない。
プラントの天気は正確だ。
静かな雨の音は、もう耳に届かない。
相手の息遣いと、唇が擦れるときの濡れた音だけが耳についた。
「ん・・・は・・・ッ」
「・・・ッ」
キスだけでこうも興奮してしまうものだろうか。
薄く目を開くと、レイもこちらを見つめていた。
いつの間にかレイの両手を掴んでいたはずの手は彼の背中に回され、
レイの膝がイザークの足を割って入ってくる。
互いに気持ちが高ぶっていた。
駄目だ、とは思いつつも熱に流されそうになる。
溺れていく。
肌と肌を触れ合わせ、互いの熱を体内で感じ合いたい。
足を絡み合わせる。
深く深くキスを重ね、いつの間にかそれが鉄の味に変わっていることに気付いて、さらに興奮した。
「ん・・・ふっ・・ぅ」
レイはすでに自由になっていた手で、相手のシャツの隙間をまさぐる。
イザークは僅かに身をよじったが、抵抗はそれだけだった。
雨が上がるまで、あと5分。
ディアッカは飲みかけの缶に爪を立てた。
アルミのそれはぺこっと音をたてて10円玉大にへこむ。
端を少し押してやると、またぺこっと音がして平たい表面が戻った。
何度もそれを繰り返す。
いらいらしていた。
「ディアッカ!」
「・・・イザーク」
そこへようやくのことで待ちかねていた連れが戻ってきた。
イザークは車の前に立っていたディアッカの傍らに辿り着くと、膝に手を当てて呼吸を整える。
ディアッカはその背中を見下ろしながら、眉を吊り上げる。
「遅いじゃないか。どこまで行ってたんだよ」
目的だった教官への挨拶のあと、イザークはレイの様子を見に行くと言い出した。
場所の見当はついてるから、と一人で校舎の中を歩いて行ってしまったのが30分前。
10分で戻ると言ったのにイザークは戻らず、何かあったのではとディアッカはやきもきしていた。
そしてつい5分前、相手が校舎の中だということに引け目を感じながらも携帯を繋いだのだった。
「心配させるなよ。遅くなるなら最初からそう言え」
「・・・すまない。助かった」
「はい?」
助かったとはどういうことだ?
ディアッカが怪訝な声を上げると、イザークは慌てて首を振る。
「あ、いや・・・。なんでもない。そろそろ戻ろう」
「・・・?ああ」
見ればやけに首元を気にしているようだ。
襟やネクタイを神経質なほど指でいじっている。
ボタンもネクタイもちゃんとしていて問題なく見えるのに。
「レイには会えたのか?」
「・・・あ、ああ」
「元気だった?」
「まあ・・・うん。元気すぎるほど」
「?」
「あー、その。普通だった、ぞ」
ディアッカの質問を適当にかわすと、イザークはふうっとため息をつく。
レイにとってはあと一歩のところを阻止したのは、もちろんディアッカからの呼び出しだった。
イザークが我に返ってレイの体を引き離し、乱れた衣服を直す間、
レイはあからさまに悔しそうな、もの欲しそうな顔でこちらを見ていた。
夕食にでも誘って埋め合わせをしたほうがいいだろう。
彼のルームメイトや同級生が八つ当たりでもされたら気の毒だ。
イザークは明日にでも時間が作れないかとスケジュールを頭に浮かべる。
そしてふと見上げた空。
いつの間にか人工雨は止んでいる。
セルリアンブルーの空に、うっすらと虹がかかっていた。
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2005/04/21