ルキア (1)

 


 携帯の画面を覗きこむ。
 メールの受信数は…ゼロ。
 口を尖らせたまま顔を上げたところで、ジュール隊長と目が合った。
 …やば。

 「…恋人か」
 「すみません」
 「確認するだけならかまわんさ」

 ちょっとびっくりした。
 ジュール隊長はこういったことには厳しく注意しそうなのに。
 「上手くいってないのか?」
 またまたびっくりした。
 目を見開いたまま黙っていると、隊長は何だ、と目尻を上げる。
 だってだって。
 ザフトでも一、二位を争うクールビューティなイザーク・ジュール隊長が、
 まるで部下の恋愛事情を心配して下さっているようではありませんか。
 恋愛ぃ?そんなもんくだらぁんっっ!って、噛みながら言いそうなのに。
 「結婚とか考えてるんじゃないのか?」
 「…そういう話は、まだ出ません」
 「付き合ってまだ短いのか?」
 「そんなところです」
 「はっきりせんな」
 ジュール隊長は面白くなさそうだったが、はぐらかされたことを怒っているわけでもないようだった。
 割と勘のいい人だ。
 私がだらだらと実る見込みのなさそうな恋愛をしていることに気付いたのかも。

 今日の仕事は定時で終わった。
 隊長に挨拶をしてから、着替えるためにロッカーへ向かう。
 さあ、いつも残業に使っている時間をどうしよう?
 28歳の独女(今ってこう呼ぶんだよね)は悩むのであります。
 「恋人」から、もう三日も音沙汰ない。
 かといって昨日メールをしておいたから、自分からまた連絡をとろうとするのは悔しい気がする。
 …何より、がつがつした女だと思われたくないっていうプライドがあった。

 ブブブ…。

 バイブにしていた携帯が震え、慌ててポケットから取り出した。
 しかし、それは恋人くんではない。
 メカニックだった頃からの友人のレムだ。

 『女子会やろうよ

  今日失恋しちゃったよ〜〜
  パトとリサが慰めてくれるっていうからシホも来ない?
  コラーゲン鍋がでるんだよ
  一緒に食べて、見る目のない男どもの悪口を言い合おうヨ』

 期待していた分、気持ちの急降下の角度は高かった。

 『ゴメンネ

  今日も残業なの。また今度誘って』

 素早く打って返信する。
 分かって下さいよ、レムちゃん。
 いま「失恋」なんて言葉、聞きたいわけがないでしょう。
 確かに私は恋人がいるなんてこと、あんたに言ってない。
 だからあんただけのせいじゃない。
 っていうか、残業でもないのに嘘ついてごめん。
 かといって彼に明日にも捨てられるかもしれない不安に駆られながら、にこやかに親友の失恋話を聞けるか。

 口の中でもごもご文句を言いながら着替えを終える。
 このままじゃいかん。
 家に帰って冷蔵庫のビールを飲んで、早めに寝てしまおう。
 頭を切り替えないと、今日みたいにジュール隊長にいらない心配をかけてしまう。
 あれ、ビール冷蔵庫に残ってたっけ?
 切らしてたようなきもするなぁ。
 夕飯を見つくろうついでに一ケース買っておくか。
 
 「あとはおつまみのチーズとポテトチップス、ミネラルウォーターもそろそろ…」
 ビルを出たところで、見覚えのある車が留まっていた。
 ちくしょう。
 歩み寄ると、運転席の男が笑いかける。
 それだけで気分が高揚する自分は本当に単純だなぁと思う。
 助手席のドアが開くが、男は「乗れ」とは言わない。
 言う必要がないと分かっているのだ。

 私が、この男を拒むはずがないと…。

 「キラ、ここは駐車禁止です」
 「次から気を付けるよ…シホ」




 「ジュール隊長って子供がいるって聞いたけど本当?」
 「んん〜」

 お楽しみのあと、恋人くんが煙草に火をつけなら聞いてくる。
 素っ裸のままうつぶせていた私は顔だけ上げた。
 ズボンだけはいたキラが、女っけないなあと苦笑している。
 「どうなの?」
 「本当みたいよ。休憩中にメール打ったりしてるもの」
 最初は彼女かと思ったんだけど違った。
 何というか…親の顔をしているんだ。
 あとで別の上司から、ジュール隊長には息子さんがいると聞いた。
 確か今、8歳のはずだ。
 隊長は30歳だから(調べたわけじゃありません。二期上のせんぱいだからです)、22歳の時の子だ。
 でも現在独身で、しかもバツイチではないらしいし…ありゃ、どういうこと?
 と、突っ込んではいけません。
 「結婚してないのに子供がいるんだ。相手の人知ってる?」

 …突っ込みやがった。

 「知らないわよ」
 「一緒に働いてるんでしょ」
 「プライベートまでさらけ出す仲じゃないわ。そんなにジュール隊長のこと気になるの?」
 「そりゃあ…」
 顔立ち、家柄、肩書の三点にどれもAランクがつくパーフェクトな方である。
 女子が放っておくはずはなく、告白の場面に居合わせたことが何度もあれば、
 ジュール隊長とどんな関係なの!?とおっかない顔で迫られたことも一度や二度ではない。
 でも私はキラ・ヤマト一筋です。
 もう3年近く付き合っております。
 イザーク・ジュール隊長の下についたのはもっと長い期間ですが、むにゃむにゃほにゃららは一度もござんせん。
 …食事に誘われたことは何回かあったか?
 でもそれだって社交辞令だ。
 割り勘だったり驕りだったりしたが、食べ終わったら駅の前ではいサヨナラ。
 なのにキラとのことは噂にも上らず、逆にジュール隊長とはイヤンな関係に見えるらしい。
 どういうことだ。
 
 「幼馴染がよく話題に出すんだよ、イザークさんのこと。どんな人か気になっただけ」
 視線が泳いでいたので嘘だろうなと思う。
 でもキラは本当に顔に出やすいから、半分くらいは事実かも。
 「母親らしき人と会ったことはないの?」
 「ちょっと、いつまでジュール隊長の話をしてるの?」
 ここに魚が料理されて待ってやっているのだ(もう三分の二くらい食われたけれども)。
 なのに女の話ならともかく…でもないが、よりにもよってオトコの話ばかりとは何だ。
 ふくれた顔を見られたくなくて壁の方を向く。
 するとキラが煙草を灰皿に押し付けてこちらに来る気配がした。
 チャックが引かれる音がして、華奢なようでいてしっかり筋肉がついている体が覆いかぶさってくる。
 あ、あたってる。
 珍しいな、めったに二回目してくれないのに。

 怒らないでよ、ごめんね。
 
 反省してるのかしてないのか。
 とにかくそれだけで機嫌が直ってしまうのは惚れた女の悲しき性かな。
 女は複雑だって言うけれども、私は単純にできている。




 次の日の朝。
 0830時になる10分前。
 私は思いきってジュール隊長のデスクに歩み寄った。
 朝礼が始まるまでは勤務中とみなされない。
 早めに出勤する私や隊長はメールチェックなど仕事に使ってしまうが、
 他の社員は朝ごはんをデスクで食べていたりする(もちろんこの時間だけは隊長も注意しない)。

 「おはようございます、ジュール隊長」
 「…ああ、おはよう」
 ジュール隊長は朝礼前に声をかけた私に若干驚いているようだ。
 すみません、朝っぱらから怖い顔して。
 でも隊長の部下やってて長いのに、好意を持っているわけじゃないと言っても、
 仕事以外のことを何も知らないのは確かにどうかと思ったわけです。
 「隊長、その…お子さんがいらっしゃるんですよね」
 「ああ、いらっしゃるな」
 言い方変ですよ。
 「写真とかありますか」
 「…ん?」
 「見てみたいな、と思って」
 嫌な顔されるかな。
 それとも怒鳴られるか。
 ちょっとお腹に力を入れて構えていたが、隊長は大した逡巡もなく「ほれ」と携帯の待受け画面を見せてくれた。

 …超かわいい。

 金髪碧眼の愛らしい子供が映っている。
 指定制服なのか、水色のセーラー服に半ズボン、背中にはランドセルを背負っている。
 なんなのこの可愛い生き物。
 「結構前の奴だな。恥ずかしがってなかなか写真取らせてくれないから」
 「本当、ふくれっ面してますね」
 「口は結構達者だぞ。ディアッカがよく言い負かされている」
 ディアッカは今の私のポジションにいた人だ。
 隊長とは同じエリート出身の同期だったが新人の頃に軍規違反を起こして降格処分になり、
 エリートな若隊長の下で働くことで許され、四年ほど前に遅れて一人立ちしていった。
 私の教育係でもあったのだが、はっきり言って口から生まれてきたような人だ。
 セクハラに近い発言を連発する一方、どんな場面でもユーモアを忘れない。
 生真面目なジュール隊長とは正反対の性格だが、彼が副長の頃は隊はいいバランスがあったと思う。
 …いや、別に私が副長になったからってぎくしゃくしてるわけじゃありませんよ。
 とにかくそんなディアッカを言い負かすなんて相当だ。
 「名前はなんて言うんですか?」
 「レイだ」
 「レイ、くん」



 一週間後。
 キラに呼び出された。
 こうやって外で食事するのも久しぶりだ。
 普段はあまりできない。
 というのも、キラには婚約者がいる。
 ラクス・クラインという政治家の娘で、CMやTV番組によく顔をだしているアイドルだ。
 はい、つまり私どもがやっているのは不倫でございます。
 今まで真面目に生きていたつもりだし、何人か恋人が出来てはいなくなったけれど、
 がつがつした恋愛はしてこなかったはずだ。
 それがどうして公式の結婚相手がいる男に流されてしまったのか分からない。

 「ごめん、遅れて」
 「ううん」
 キラが少し遅れてやって来た。
 それ自体はいつものことだ。
 彼には常にやきもきさせられている。
 だからこそ、彼に夢中になっているのかもしれない。
 マイペースで気まぐれで、でもときどき優しい。
 婚約者がいるという障害に逆に燃えたということもあるだろう。
 とにかく今の私、シホ・ハーネンフースはキラ・ヤマトという男に骨抜きにされていた。
 「好きなの頼んで」
 これもいつものセリフだ。
 私は適当に目に着いたセットメニューを選び、ボーイを呼ぶ。
 食事が終われば、やっぱりいつも通りホテルに直行ですね。
 骨抜きの女は尽くさせていただきますよ。
 すみませんね婚約者さん、相手に不倫なんかさせてしまって。
 料理を待ちながら、ジュール隊長の話をしようと思った。
 キラは隊長のことを気にしていたし子供好きだからレイくんの話なんか興味を持ちそうだ。
 ああ、楽しみ…。
 
 だが。
 今夜ばかりはそうはならなかった。

 「終わりにしようか」
 「…はあ」
 私はフォークを握ったまま、気の抜けた相槌をうった。
 「フレイがね、恋人なんだけど、つい最近妊娠が分かって」
 「…はあ」
 フレイ?
 だれ?
 あ、恋人って今言ったっけ。
 …恋人ぉ?
 「ラクスさん、じゃなくて?」
 「うん。ラクスにも婚約解消してって言ってきた」
 「…」
 つまり何?
 私は性欲処理の一人で。
 たったいま捨てられたってことか。

 キラとフレイさんは高校からの同級生で、付き合ったり別れたりを繰り返していたらしい。
 大学に入ってから一時音信不通になったようだが、ラクス・クラインと婚約を発表してからばったり再会したという。
 やはりアイドルを目指していたそのフレイさんとの恋が燃え上がり、あれやこれや…。
 って、三つ又かけてたのか。
 すげえな。

 

 

 食事が終わると、もちろんホテルなんかには行かずにサヨナラになる。
 私は歩きなれた駅への道を歩きながらぼんやりしていた。
 捨てないでくれと泣きついたり、慰謝料払いやがれと怒ることもない。
 「じゃあね」の一言で、3年とちょっとの関係は終わった。

 結婚できると思っていたわけではない。
 なにせ相手には婚約者がいた。
 私自身、結婚願望が薄いほうだと思う。
 でもキラが婚約者と私以外の女を囲い、しかもその第三の女の方を選んだということは予測の外だった。
 不倫をやっていた自分がとやかく言えることではないかもしれないけれども、
 キラが私とラクス・クラインにしたことはちょっと非道過ぎないだろうか。
 同じ考え同じ感情がぐるぐる頭の中を回っている。
 がちゃり。
 家のドアのカギを回す音でようやく我に返った。

 ぽたり。
 ノブを掴んだ手の上に水滴が落ちる。
 泣きたくないのに。
 泣いたらみじめになるだけだ。
 でも。
 仕方ないじゃない、キラのことが好きなんだもの。
 大好きだったんだもの。
 じゃなきゃ脚を簡単に開きませんよ。
 三年間、この仕事漬けのつまんない女に触れてくれたのはキラだけだった。
 涙は止まらない。
 誰もいなくてよかった。
 自分のうちのドアの前で、まさにドアノブを掴んだまま肩を震わせて泣く姿は滑稽だったろう。

 実るはずのない、滑稽な恋が終わった。



 次の日からは仕事に没頭した。
 とにかくキラのことを忘れようと残業をバンバン入れ、いつもは敬遠する挨拶回りもこなし、
 仕事が遅い部下をびしびししごいた。
 おかげで家に帰れば泥のように眠れる。
 肌は荒れるし、職場の人間関係も少々荒れてるかもしれない。
 でも私の心にはもっと酷いブリザードが吹き荒れていた。
 これが立ち止まって考え込んだ暁にはとぐろを巻いてハリケーンになるに決まっている。
 テレビではアイドルの婚約解消のニュースがトップを飾っていたようだが、
 目を向ける気にもなれなかった。
 電車の中でゴシップに「ラクス・クライン」という文字があれば必死に視線をそらす。
 キラに繋がるものは何も五感に触れさせたくなかった。

 定時になり、事務の女性隊員が帰宅の支度をしている。
 私は今日も残業するつもりだったからパソコンから目を離さない。
 すると、誰かが近づく気配がした。
 「ハーネンフース」
 「はい」
 あ、ジュール隊長だ。
 なんだか久しぶりに顔を見た気がする。
 相変わらずかっこいいなぁ。
 「飲みに行くぞ」
 「はい。…は?」
 思わず返事をしてしまって、そして呆けた声を出した。
 なんですと?
 「用意しろ。急げ」
 いえ、いいです。
 ノーサンキューです。
 ほっといてくれませんかね?
 …なんて怒ると怖いクールビューティーに言えるはずもなく。
 言ったとしても聞き入れてくれなかっただろう。
 ジュール隊長は自分の鞄を持つとすたすたと入口へ向かってしまった。

 隊長が連れてきてくれたのは東洋風の座敷がある飲み屋だった。
 バーテンダーがしゃかしゃかやる小洒落たバーを思い浮かべていた私は拍子抜けしてしまう。
 ジュール隊長でもこんなところ来るのか。
 隊長は迷うことなく座敷に直行すると、胡坐をかいて座る。
 私が慌てて向かいに座るまでに、ビールを二つとおつまみを勝手に頼んだ。
 注文を受け取った仲居さんが退室すると、当然私と隊長の二人きりになる。
 …やばい、何話せばいいんだ。
 てかこの人、どうしていきなり私を誘ったりするの。
 え、私に気があったりするの?とかは思いません。
 隊長が私に?
 ありえないありえない。
 「あのう…」
 「今日くらい、仕事を忘れてゆっくりしたらどうだ」
 「はあ」
 「何があったかは知らんが、ああも殺気立たれちゃ他の連中も仕事抜け出せんだろうが」
 「はあ…」
 殺気立ってましたか。
 すいません。
 「仕事しようとしてたってことは今日はもう予定がなかったんだろ」
 「そう、ですね」
 はい。
 ありませんでした。
 カレシはもういないですからね。
 恋人募集中の崖っぷちアラサー独女に逆戻りしましたからね。
 そうこうしているうちにビールが運ばれてきた。
 つられるように手を伸ばし、グラスを合わせる。
 「メリークリスマス」
 「…あ?」
 「今日は12月25日だ」
 「…」
 「だから飲め。飲んで面倒なことは忘れろ」
 あ、だから「今日くらいは」なのか。
 確かに副長が殺気発しながら仕事しろオーラ出しながら残業してたら部下たち帰りにくいですよね。
 全然気づきませんでした。
 っていうか、キラに振られてから10日経ってるよ。 
 10日も殺気出しまくりじゃあ肌も荒れるよなぁ。
 「あの、すみませんでした」
 「ん」
 私の謝罪に短く答え、隊長はビールを結構なペースで飲んでいる。
 この人やっぱりかっこいいなあ。
 外っ面もいいけど、仕事もできて懐も広くて部下への気配りもできるなんて、完璧だ。
 ああ、どうして私ジュール隊長に惚れなかったんだろう。
 近くにこんなイイ男がいたのに、なぜにあんな三つ又男に骨抜きにされてしまったんだろう。
 バカモノめ。
 「隊長…」
 「ん」
 「私、恋人と別れました」
 「ふられたのか」
 「どうしてわかるんですか」
 「男を捨てた女がどうして仕事に没頭できるんだ」
 「…するかもしれないじゃないですか」
 「未練がなきゃ別の男を探すだろう」
 「それは偏見ですよ」
 「そうか」
 「そうです」
 「でも、ふられたんだろ」
 「ふられました」
 そこで私は一気にビールを飲み干した。
 隊長がかまわない、という仕草をしたので仲居さんにお代りを頼む。
 「結婚…したかったわけじゃなかったんですけど」
 「ん」
 「でも、どこかで…」
 「…」
 「いえ、やっぱりなんでもないです」
 「…ん」
 二杯目のビールが来た。
 隊長がから揚げを頼む間に、来たばかりのビールのグラスを半分ほど空けた。
 「いいペースだな」
 「クリスマスですから」

 結局ビールは五杯空けた。
 クリスマスだから?から揚げも二皿平らげた。
 当たり前に、気分が悪くなった。




 目を覚ますと自分がどこにいるのか分からなかった。
 頭ががんがんする。
 口の中もねばねばして気持ち悪い。
 あー。
 この展開は…漫画でよく見たことがある。

 「目が覚めましたか」
 寝かされていた部屋から這い出ると、まぶしい金色が揺れた。
 テーブルの上に皿を並べていた少年が、水色の大きな瞳でこちらを見上げている。
 「レイくん、ね」
 「はい。おはようございます、ハーネンフースさん」
 隊長の待ち受け画面のあの子だ。
 昨夜隊長と飲みに行って、自宅に帰った記憶がなくて、見知らぬベッドで寝かされていて、
 そして隊長の息子さんが今ここにいる。
 もしかしなくてもここはジュール隊長の家だろう。
 …なんてこったい。
 「シホでいいわ。お水もらっていい?水道水でいいから」
 「わかりました、シホさん」
 レイ君はコップに水を入れて持ってきてくれた。
 水道水で良いと言ったのにミネラルウォーターのボトルの水を注いでくれている。
 お礼を言ってからグラスに口をつけた。
 喉の奥がひりひりする。
 記憶が曖昧だが吐いた気がする。
 ああ、ジュール隊長に迷惑かけちゃったなぁ。
 失恋してやけになってビール飲みすぎてリバースして上司に世話させる部下…。
 文章にしてみると最悪だ。
 「何か食べますか?」
 「いいえ、食欲ないわ。これ以上迷惑かけられないし、お暇します」
 「シホさんの服、まだ洗濯してますよ」
 「あー…」
 くるんとした目で見上げてくるレイ君は可愛い。
 ぐりぐりしてぎゅっとしたくなる。 
 まさに天使みたいだわぁ。
 エンジェルだわぁ。
 …。
 そんな乙女なことを考えるのは、現実逃避してるからですね。

 ―――シホさんの服、まだ洗濯してますよ。

 気がつけば私、見たことないポロシャツに短パンです。
 誰が着換えさせたんでしょうね。
 …っていうのはこの天使には聞かない方がいい気がする。
 「あの、ジュールたい…お父さんは?」
 「自分の部屋です。さっき誰かから電話がかかってきたから」
 それ以来会話が途切れ、私はもらったミネラルウォーターをちびちび飲む。
 コーヒーも勧められたが匂いだけで気分が悪くなりそうだったのでやはり辞退した。
 何ともいえぬ雰囲気が20分は続いただろうか、ようやく部屋のドアの一つが開いてジュール隊長が出てきた。
 パリッと糊のきいたポロシャツにベスト姿だ。
 軍服ではなかったことに私はぽかんとした。
 「起きてたのか」
 「おはようございます…」
 「気分は?」
 「大丈夫…でもないです」
 「だろうな」
 ジュール隊長は飲みかけだったらしいコーヒーに口をつけた。
 すかさずレイ君がお代りどうぞ、と危なっかしい手つきでコーヒーサーバーを持っていく。
 隊長は短くお礼を言って、マグカップをレイ君がコーヒーを注ぎやすい位置に差し出していた。
 その時の隊長の表情は見たことがないもので。
 ああ、この人は本当に息子さんを慈しんでいるんだなぁと思う。
 そう信じさせるに十分な、優しくて柔らかい笑顔だった。
 「レイ、時間は大丈夫なのか」
 「はい。そろそろ行ってきます」
 「行ってらっしゃい」
 もうコートまで羽織っていたレイ君は、鞄を持ってぱたぱたと廊下を走って行った。
 …と思ったら、またぱたぱた足音がしてダイニングに顔を出す。
 「シホさん、ゆっくりしていってくださいね」
 「ええ…。ありがとう」
 にこっ、と笑った顔は可愛い。
 天使だ。
 エンジェルだ。
 ぽわんとアルコールが残っている頭で考えているうちに、玄関の扉が閉まる音がした。
 今度こそお出かけになったらしい。
 また部屋に沈黙が落ちる。
 あー、気まずい。
 でもこの気まずさは自分の責任でもある。
 少なくともジュール隊長のせいではない。
 「あの、すみませんでした」
 「ん」
 居酒屋の時と同じ返事だ。
 「運ばせたりして」
 「店のトイレで吐いたからな。運ぶしかないだろ」
 「すみません…」
 「お前の家分からなかったし、俺の家が近かったからな」
 「はい」
 「タクシーの中でも吐いて軍服も汚れるし」
 「すみません」
 「家に着いてからも吐くし…レイが救急車を呼んだ方がいいんじゃないかと心配してた」
 「重ね重ね申し訳ありません」
 もう駄目だ。
 女失格だ。
 レイ君も初対面でゲロ吐く女を見てさぞかしびっくりしたことだろう。
 こんなですが、あなたのお父様の副官です。
 至らなくて本当にごめんなさい。
 「着換えさせたぞ」
 「はい」
 「イヤンとかキャーとか言ったらどうだ」
 「…今日限り女は捨てましたんで」
 「阿呆。下着は脱がしとらん」
 「あんまり変わりません」
 「そうか」

 隊長は怒っていなかった。
 腹の内は読めないけれど、表情は至っていつものクールビューティーだ。
 呆れて怒る気にもなれないんだろうか。
 でも呆れられても良いんです。
 もう女は捨てたんです。
 隊長に好かれようなんて夢のようなこと考えてませんよ。
 恋愛も金輪際ごめんです。
 どうせなら頭丸めて出家してやろうか。

 「多少はすっきりしたか?」
 「はい?」
 「酒で紛らわせられるんならそれでいいだろう」
 「…」
 もしかしなくても、失恋のことだろう。
 「すぐには忘れられないだろうが」
 「忘れます」
 早く過去にしたい。
 キラのことは本気だった。
 キラがそうじゃなかったことは知っていたけれど、
 忙しい婚約者に寂しさを感じて私のところに来てくれていたんだと信じていた。
 でもそうじゃなかった。
 私は心の拠り所ではなく、数ある性欲処理用の女の一人に過ぎなかった。
 いや、《女》と見られていたかどうかすら危ういところだ。
 「忘れます、あんな男…すぐに」
 「そうか」
 「仕事、頑張ります」
 「…そうか」
 「もう隊長に迷惑かけないように」
 「かけてもいいぞ」
 「駄目です」
 「ディアッカも手がかかった。お前も少しくらいかかっていい」
 「駄目です」
 そんなの副官失格だ。
 隊長はそれ以上何も言わなかった。
 ちょっとさびしそうに笑ったのは何でだろう、と思ったけど、
 まだ頭ががんがんするので考えるのはやめた。

 結局その日は日曜日だったから(忘れてた)夕方まで休ませてもらった。
 昼過ぎにはエンジェルレイ君が日曜塾からが戻ってきて、夕食に誘われる。
 お世話になりっぱなしでは申し訳ないので、レイ君のカレー作りを一緒に手伝うことにした。
 料理はあまりしないが、まあまあ良くできたと思う。
 ちなみにビールも食卓に出たが口は付けなかった。
 最後に洗濯して乾燥機に入れてもらった軍服を受け取り、深く頭を下げてから家路につく。
 別れ際、レイ君が「また来てくださいね」と言ってくれた。
 半月ぶりに穏やかな気分で家の門をくぐった。



 「私は絶対に許さないわ!」
 
 そりゃそうだろう、私だって…許すか許さないかと聞かれたらもちろん許さない。
 「落ち着きなさい、ジュール隊長の前よっ」
 「お姉ちゃんに私の気持なんか分からないわよ!」
 「メイリン!」
 「許せない!あの人はあたしの体を弄ぶだけ弄んで、最後は他の女に子供ができたからって捨てたのよ!!」
 私はコーヒーを客用のカップに注ぎながら非常に居心地の悪い思いをしていた。
 「絶対にキラ・ヤマトを訴えてやる。洗いざらい全部話してやるわ!」
 「ちょ、ちょっとぉ…」
 普段は会議に使うテーブルに、ジュール隊長と向かい合うようにして座っているのは二人の女性兵士だ。
 二人とも赤い髪に色彩の近い瞳をしていて姉妹だとわかる。
 きんきん響く声で、クリスマスまでの私の心中を代弁しているのは妹の方だった。
 年が明け長い休みも終わり、さあ仕事始めですねと新たな気持ちになったところで隊長に面会の申し出があったのだ。
 ルナマリア・ホークという別部隊の女性兵士は、妹を引きずるようにしてジュール隊の隊室にやってきた。
 隊長は今日は初日だからと私以外の隊員を帰宅させると、二人を部屋に通した。
 どうもルナマリアからは以前より相談を受けていたらしい。
 妹の名前はメイリン・ホーク。
 キラ・ヤマトの四番目の《女》だった。


 
 メイリン・ホークによると。
 キラとは一年ほど前に食事に誘われ、あっというまに体の関係になったとのこと。
 ラクス・クラインという婚約者の存在は知っていた。
 だが二人の関係に暗雲が立ち込めているというゴシップ誌の記事が出たこともあり、
 いつかは自分にプロポーズしてくれると思っていたようだ。

 「はっきり結婚の約束したわけじゃないんだろう?」
 「でも…でもっ」
 散々泣きわめいて、ようやく落ち着いたところでジュール隊長が口を開いた。
 「そう思っちゃうじゃないですか…っ。せ、セックス、してたんです、よ…」
 「合意の上だったんだろうが」
 「ですけどっ」
 「それにお前、キラ・ヤマトに婚約者がいることを知ってて付き合ったんだろ」
 「…」
 メイリンがぐっと押し黙る。
 私も唇を噛んだ。
 そうなのだ。
 キラを責めるのは簡単だが、それを声に出すとなると己の不貞も告白することになる。
 ラクス・クラインだ。
 彼女もまたキラ・ヤマトに捨てられたが、私たちとは違い正式な婚約者だった。
 あくまでブラウン管からの情報だが、ラクスもまたキラからの仕打ちに耐えられず訴え出るつもりだという。
 そこに「自分もキラと関係があった」と声に出したら最後、
 キラだけに向けられていたラクスの怒りの矛先がこちらにも向かうに決まっていた。
 ラクスにとっては私もメイリンもキラを奪った悪女に変わりないからだ。 
 ジュール隊長が暗に指摘したことで、メイリンも自分の人生までが危うくなりかねないことを自覚したようだった。
 キラが私たちにした仕打ちが裁かれるかどうかはラクス・クラインに任せるしかないだろう。
 捨てられた怒りとやるせなさは一生ものの傷痕になるかもしれないが、
 あんな下半身男のために人生を棒になんてそれこそ馬鹿のすることだ。

 「本当に、ありがとうございました」
 「気にするな。何かあればまた連絡してくれ」
 ルナマリアが隊長に深く頭を下げている。
 メイリンは肩を落としていたが、キラのことは忘れるとはっきり口にしたので彼女も安心したのだろう。
 いいお姉さんだ。
 ホーク姉妹が帰っていき、私とジュール隊長も帰り支度を始めた。
 二人で軍部オフィスが入っているビルの入り口まで歩く。

 「悪かったな、遅くまで」
 ふいに隊長に話しかけられ、どういうわけか緊張した。
 「いえ、この間はご迷惑かけましたし…」
 「ああ…」
 あれ?
 なんだろう、この雰囲気?
 空気がぴりぴりしてる気がする。
 「お前も踏ん切りがついたか?」
 「はい?」
 隊長の台詞が意味不明です。
 空気はどんどん鋭く、重苦しくなっていく。
 何これ…何なの…。
 「お前もしてたんだろうが」
 「…」
 「キラ・ヤマトとの浮気」

 しばらく息を止めていたと思う。
 空気はぴりぴりを通り越して、完全に凍りついていた。
 「なんで…」
 「何に対する『なんで』だ」
 「どうして、いつから…知って…」
 ふうっ、と隊長の口からため息が漏れた。
 「ずっと前から」
 「…」
 「キラのこと、ずっと見てただろうが。…すぐに気付いた」
 「他の人は、誰も気付かなかった…」
 「俺はお前のこと、見てたから」
 「…」
 すごく重い会話をしている気がするのだが、私たちの足は出口に向かって淀みなく進んでいた。

 何だろう、これ。
 何やってんの、私ら。
 隊長に浮気がばれてた。 
 ばればれだったらしい。
 それで隊長は、私のことを見てた。
 え?
 何これ?
 私、告白された?

 二人の足が、ぴたりと止まった。
 駐車場。
 私の車と、ジュール隊長の車が並んでいる。
 しばらく二人して突っ立っていた。
 隊長が今どんな顔をしているのか知りたいと思ったが、見ることはできなかった。
 そんな勇気はない。
 資格もないと思う。
 取るべき行動は一つしかなかった。
 「ごめんなさい…っ」
 私は運転席に滑り込むと、車を発進させた。
 信号を三つほどクリアして、ようやく、恐る恐る振り返る。
 隊長の車は見えなかった。
 行き先が違うのだから当然だ。
 よかった、と息をついた。

 どうして「よかった」なのか、自分でも分からなかった。
 
 


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2012/01/11