ルキア (3)

 


 自宅に到着したのは日付が変わる20分前だった。
 そのままバスルームに駆け込む。
 頭の中は真っ白だったのにちゃんと軍服を脱いでいたのは無意識の行動だ。
 コックをひねると同時に声を上げて泣いた。
 おんおんと見事な男泣きだ。
 その日においては唯一幸いなことに。
 騒音苦情は来なかった。


 朝目覚めると、酒を飲んだわけでもないのに酷い頭痛で起き上がれなかった。
 理由は分かっている。
 泣き過ぎだ。
 もう、どうなってもいい…。
 同僚たちはともかく、アスランは私が休んでも気にしないだろう。
 むしろ計算通りだとせせら笑っているのではないだろうか。
 ともあれ始業時間まで惰眠をむさぼり、頃合いを見て体調不良のため休むという連絡を職場に入れた。

 何も考えたくなかった。

 キラのことも。
 自身の将来のことも。
 アスランのことはもちろん。
 …ジュール隊長のことだって。

 ―――ピンポーン。

 …出ないぞ。
 ノーメイクで腫れあがった酷い顔、セールスマンにだって晒してなるものか。

 ―――ピンポーン。

 出ないってば!
 っていうか、普通だったら会社にいる時間だからね!
 出なくてもいいよね?!

 ―――ピンポンピンポンピンポーンッッ!!!

 「うるさいわよ!!!」
 ドアに向かって叫んだ。
 本当ならドアを蹴破って一発ぶちかましたいところだが、下着同然の姿ではさすがに自制する。
 私の咆哮が聞こえたのだろう、ベルが沈黙した。
 しかし立ち去る気配が感じられない。
 しつこいな…。
 舌打ちしかけた時、今度は遠慮がちなノックが聞こえた。
 コン、コン。
 「あの、シホさん…」
 叩くと言うよりはひっかくような音の後に、見覚えのある声。
 「レイ君!?」
 「…はい、朝からすみません」
 「ちょ、ちょっと待って!…開けるから!5分…いや、10分待って!」
 
 床に放りだしたままだった軍服をはおり、素早く顔を洗って髪を整えた。
 さすがにメイクはやめておいた…時間がかかり過ぎるし、腫れあがった顔には無意味だ。
 何とかましな状況を取り繕い、私はそっとドアを開ける。
 「お、おはよう」
 「おはようございます。…上がってもいいですか?」
 「え!?」
 「駄目ですか?」
 「いやぁ…凄く散らかってて」
 「かまいません」
 私はかまうよ!!!

 結局、再度玄関で10分待機していただいた。
 とにかく脱ぎっぱなしの服や室内で干したままの下着はクローゼットの中に押し込み、
 埃っぽい床はクイッ○ルスイー○ーで拭きとって体裁を整える。
 …もう、駄目な女の典型だよ。
 レイ君がベルを鳴らしてから20分以上も経って、ようやく部屋にお招きしました。
 ごめんなさい。

 「すみません、今日会社を休んだって同僚の人に聞いて…」
 「デコ…アスランに?」
 「デコじゃありません。ラスティさんです」
 そうだよね、デコのこと嫌いみたいだもんね。
 「ラスティ君と仲良いの?」
 「ディアッカに連絡先を聞いてかけました。シホさんが困ってると思って」
 「え?」
 どういうこと?という疑問が口から出る前に、レイ君は持っていた小さな紙袋を開いた。
 中から出てきたのは見慣れた赤い携帯…私のものだ。
 「あ…れ?」
 「昨日、車の後部座席に落ちているのを見つけたんです。だから届けようと思って」
 「…」
 正直、ジュール隊長との昨日の最悪なやり取りは記憶がふわふわしている。
 あれだけの罵倒を受け、そしてあれだけの怒りを感じたにも関わらず、もうすでに何年も昔の出来事のようだ。
 普段だったら絶対に気付く携帯の存在も、今の今まで意識に上らなかった。
 「ありがとう…わざわざ」
 「いいえ。それと謝りに来たんです。イザーク…養父(ちち)が酷いことを」
 「やっぱり聞いてたのね」
 「大きな声でしたから」
 思い返せばあんな密室で眠っていたレイ君にとってはとんだ安眠妨害だったろう。
 重ね重ね申し訳ない。
 「私がいけないのよ」
 「そんなことありません。イザークは酷すぎます」
 「確かに二股かけてるって言われたのはショックだったけど…キラとのことは本当だもの」
 「キラ・ヤマトのこと、好きだったんですか?」
 「好きだったけど…良く分からない。結ばれないって分かってて付き合ってたんだもの。
 傍目から見れば不毛で意味がない…むしろ残酷なことだわ」
 どうして私、レイ君にこんな話してるんだろう。
 相手は子供なのに。
 「キラのこと、まだ好きですか?」
 「捨てられて、悔しいし悲しいわ…今はそれだけ」
 未練は多分、もうない。
 会いに行けば、あのキラの性格ならまた関係が再開するかもしれない。
 でもそれだけだ。
 再び捨てられると分かっていて付き合うほど私は強くない。
 結局、キラとの不倫はスリルを楽しんでいただけなのだと自覚する。
 お堅いジュール隊長が呆れるのも当然だろう。
 「じゃあ、イザークのことは?」
 「え?」
 「養父のこと、嫌いになりましたか?」
 「私…」
 気遣われて嬉しかった。
 告白されて戸惑った。
 罵倒されて悲しかった。
 「私、分からない」
 ジュール隊長が好きだったら、告白されたら飛び上がって喜ぶはずだ。
 でもあの時はそれがなかった。
 「嫌いじゃない」
 それだけは確かだ。
 でもそれ以上のことは分からないし、知るのは怖かった。

 レイ君はそんな私を静かに見つめていたが、携帯を手に取ると差し出してきた。
 無意識にそれを受け取ろうとする。
 「すみません」
 「?」
 「勝手にいじらせていただきました」
 「は?」
 思わぬ告白にフリーズする。
 他人の携帯を勝手にいじるなんてまね、天使なレイ君からは想像できない。
 いや、特に見られて困るものはなかったけれども。
 本当に通話とメールにしか使ってなかったから。
 「アドレス帳に、イザークの番号を入れておきました…もちろん私用の方の」


 イザークの携帯番号を勝手に入れたというレイ君に、私は「どうして?」と尋ねた。
 当然だ。
 がちがちに固まった私の頭じゃ理解しがたい行動だ。
 「あなたからイザークに連絡してほしいから」
 「隊長は…私のこと…」
 「あなたのこと、好きですよ」
 「告白された、けど。断った」
 「でも今はキラのこと好きじゃないんでしょう?」
 「そうだけど」
 キラのことが好きだったからジュール隊長を振ったわけじゃない。
 ハイネやラスティに気がないからジュール隊長が好きだ、ってわけじゃない。
 そこまで気持ちは単純になれない。
 「二ヶ月の間に、イザークを好きになって下さい」
 「…二ヶ月って?」
 「イザークはもうすぐフェブラリウスに戻るんです」
 フェブラリウスはジュール隊長の生まれたプラント市だ。
 宇宙で生まれ育つコーディネーターにも、出身市というものがある。
 「次の評議会委員の側近衆に選ばれたんです。アプリリウスに来るのは月二、三回くらいになるそうです」
 なるほど、それなら確かにフェブラリウスに居住を移した方がいい。
 「レイ君は?」
 「僕のことはいいんです。イザークを好きになって。一人にしないで」
 「レイ君?」
 「イザークは僕を引き取ってから、ずっと僕のことだけ考えてくれてた。
 そんなイザークが初めて自分のためにあなたに告白したんです。
 結婚したら僕の肩身が狭くなるって、見合いを断り続けてたイザークが…あなたを」
 「私、そんな大層な…」
 「シホさんはいい人です!正直な人だから、気持ちが曖昧なままイザークを受け入れようとしなかったんでしょう!?」
 そう、かもしれない。
 私はとにかくジュール隊長を尊敬していた。
 告白された時、私の心はただキラに捨てられた絶望でいっぱいだった。
 私のことを好きだと言ってくれたジュール隊長にすがることもできたのにそれをしなかったのは、
 僅かな自尊心と、自分のために振り回されるジュール隊長を見たくなかったからだ。 
 「二ヶ月もあればイザークを好きになれるでしょう?イザークは…素敵な人だから」
 「…」
 レイ君の言っていることは随分と滅茶苦茶だ。
 期限を設けて「好きになって」と言うのは一見筋が通っているようだが、
 私がジュール隊長を好きになるという結果がぶれていない。
 大人は「世の中そんなに甘くない」とやる前から否定するような話だ。
 それを真剣に私に打診するあたり、やっぱりこの子は子供なんだなと痛感する。
 でもそれだけに彼も必死なんだろう。
 私の返事を待たず、彼は部屋を後にした。
 送って行った方が良かったかな、と気がついたのは足音が遠ざかってから随分と経った頃だった。
 


 「おはよー、シホちゃん!風邪治ったの?」
 「…おはようございます。風邪じゃないです」
 「疲れがたまってたんだよ。ハイネがこき使うから」
 転属して初めての欠勤だったため、次の日は皆に心配された。
 ハイネやラスティだけでなく、普段あまり話さない同僚にまで声をかけられる。
 ちょっぴり感動して一人ひとりに心配してくれた礼を言いながら自分の席に着いた。
 先に席についていたアスランが視線を向けたのが分かったが気付かないふりをする。
 もうこいつにだけは気を許してたまるか。
 パソコンの起動ボタンを押して立ち上げる間、手持無沙汰だったので携帯を取り出した。
 かつてはキラの気まぐれを反映して、私を一喜一憂させていた。
 そして今は…。



 

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2012/06/03