ラベンダー(前編)
「このままじゃイタチごっこだ。俺が囮になってテロリストをおびき寄せる」
「…」
後ろから抱きつかれたまま耳元でそう呟かれ、シホは無言のまま相手の脇腹へと肘鉄をお見舞いした。
イザークは「ぐえ」と蛙が潰れたような声を上げて後ろにのけぞる。
「げほっ!…おまっ、何てことするんだ!」
「馬鹿も休み休み言いなさい」
「本気だ」
「自殺行為だって言ってんのよ!!」
シホはイザークの方へ振り向くと、腕を腰に当てて仁王立ちする。
実習訓練を終えてきたばかりのため、ジャケットの中は汗びっしょりだ。
訓練兵たちは最初こそシホの指導に反発していたものの、
ルナマリアやディアッカが率先して参加するようになってくれたためましな動きをするようになっていた。
彼らのその苦労も全てイザークを守るためだ。
教官であり、イザークのボディガードでもあるシホが反対するのは当然のことだった。
「どうしてそんな無茶ばかりするのよ」
先日のクルーゼを訪ねた件においてもすでに危険を冒していると言えた。
シホにしてみれば、イザークはわざと己を危うい場所に置こうとしているように見えてならない。
一瞬、この人は実は死にたいのだろうかと物騒な考えが過ぎった。
だが。
「国王は俺を疎んじている」
イザークがぽつりとつぶやいた言葉に、シホは大きく瞳を見開いた。
イザークの父であり、プラントの国王パトリック・ザラ。
ボディガードとして何度も会議や式典に同行し、食事に招かれたこともあるシホは、
パトリックのイザークに対する態度が良いとは言えないことを感じ取っていた。
国王は四人いる皇子全員に厳格でいるようだが、特にイザークに対しては警戒に似たものを孕んでいる。
逆にイザークの数ヶ月違いの弟で正室の子であるアスランに多大な期待を持っているようで、
同じくらい優秀で、しかも何者もを引き付ける美貌とカリスマを持ったイザークを邪魔に思っているのかもしれない。
アスランは文武に優れてフェンシングの競技やチェス、弁論戦で何度も兄を負かしたことがあるくらいだと聞いた。
シホから見てもアスランは秀才の部類に入れることができると思う。
ただ謙虚で人当たりが良いといえば聞こえがいいかもしれないが、国を率いる王となるには優柔不断過ぎるところがあった。
外見にしても黒髪と緑の瞳という顔立ちは間違いなく美形であるのに、
銀髪碧眼の煌びやかなイザークと並ぶとあっという間に引き立て役になってしまう。
パトリックとしては生涯愛した最初の正妻の子を、誰もが納得できる形で王位に即けたいと思っているはずだ。
四人の皇子の中でイザークだけがイギリスの寄宿学校に追いやられていたというから、冷めた親子関係は随分と根深いところにあるのだろう。
「この間のことも、シンのご両親が亡くなったテロのことも…お父様を疑っているの?」
「疑いたくはないがな」
素っ気ない声だったが、それにはどこか憐憫が含まれていた。
我がままで自分勝手で図々しいこの男でも、父親に命を狙われているかもしれないという状況は堪えているのかもしれない。
と、イザークは椅子に座るとちょいちょいと指を曲げて近くに来るよう促した。
声をひそめなければいけない内容なのかとシホが誘われるまま近づくと、そのままぐいっと腰を引っ張られて膝の上に乗せられる。
「ちょっと!」
「静かにしろ。どこかにテロリストの手先が紛れ込んで聞いていたらどうする」
「立ったままでも話ができるでしょう。なんであなたの膝の上に座らなきゃならないのよ」
「いちゃついてるように見えるだろ」
「皇子様が女にうつつを抜かしてるってふれ回られたら困るでしょう」
「いいや、むしろ好都合だ。無能だって思われて、テロに合う可能性が低くなる」
「…」
調子のいいことを言いながら、汗でべたついている首に唇を寄せてくる。
内腿をさすられて、まさかこの状態でやるんじゃなかろうかと体が強張った。
「ちょっ、い…いやよ!嫌!!」
「一週間も禁欲させるお前が悪いんだろう」
「まだ腰が痛いの」
「さっきまで砂漠で散々駆け回ってただろうが」
初めて体を繋げたあの日から毎晩のように求めるイザークを、シホは体の不調を理由にずっと拒んできた。
正直、一度シホを手に入れてしまえば彼は飽きるかもしれないと思ったのだ。
イザークの立場なら世界一の美女でもどこぞの王女だろうと手に入る。
日系人の、ついこの間まで路上生活をしていたシホに執着する理由が分からなかった。
「…なんで私なの?」
「惚れてる」
「だから、何で?」
「言ってほしいか?」
「…やっぱりいい」
シホの心配は杞憂に終わりそうだ。
体を抱き込む腕は初めての夜以上に熱っぽく、シホの体にも伝染し始めている。
このうえイザークの自分に対する惚気を聞いてしまったら熱で頭がどうにかなってしまうと思った。
イザークの舌がじゃれるようにシホの唇を舐めてくる。
性悪なこの男にもう一度抱かれてもいいと思っている自分自身に呆れつつ、シホは相手の唇に食いついた。
結局イザークの提案通りになった。
離宮にお忍びで行くのに同行するのはシホを含めた少数の兵のみ。
この情報はクルーゼたち武器商人を通じてテロリストにわざと流されている。
そして実際には、情報にない親衛隊が別ルートを通って離宮に向かう手はずになっていた。
とはいえ離宮までの移動中にイザークを守れるの人数は限られている。
シホはただでさえ張りつめさせることが多い神経を、さらに限界まで尖らせなければならなかった。
出発前のヘリやメカニックなどの点検をようやく終えた頃、イザークがディアッカと共にヘリポートとなった中庭に出てきた。
彼のすぐ隣に手を引かれたシンの姿を認め、まさか危険な所に一緒に連れていく気ではあるまいかと不審に思って様子を見守る。
するとイザークはヘリの少し手前で立ち止まった。
シンが赤い瞳を曇らせ、イザークのコートにしがみついている。
あまり甘えた態度を取らないシンのこの様子に、不穏な空気を感じ取っていることが知れた。
理不尽に両親を奪われ心に傷を負った少年には、今自分に必要な存在が誰であるのか分かっている。
イザークはシンを守りながらも子供扱いせず、一人で生きるための自信を付けさせようとしていた。
シン自身もそれに気づいているからこそ、保護者としてではなく家族としてのイザークを求めている。
「大丈夫だ。俺に何かあっても、お前の面倒はルナマリアが…」
「馬鹿ね」
自分にもしものことがあっても心配ない、とシンの懸念とは見当違いのことを言うイザークに呆れながら二人の間に割って入る。
後ろのディアッカもわざとらしく肩をすくめていた。
シホは膝をついてシンに目線を合わせると、にっこりと微笑みかける。
「この人は私が必ず連れて帰るわ。心配しなくていいのよ」
優しく言い聞かせれば、賢い少年はこくりと頷いた。
シホの実力を知っているシンは、強い信頼の眼差しを向けてくる。
まさかシンに己の無鉄砲を心配されているとは思わなかったイザークを軽く睨むと、シホはディアッカと共にその後ろに立った。
「シンの奴、いつの間にお前に懐いたんだ?」
「演習を毎日覗きに来てたわよ」
隣のディアッカも「イザークより熱心だよな」と政務に多忙な彼の立場を承知でからかってくる。
だがイザークは親友の嫌みなど聞こえていないかのようで、眉をひそめてシホの方を睨んだ。
「子供だと思ってたが油断できないな」
「…はあ?」
ヘリの強烈な音と風のせいで、シホは何か聞き間違えたのかと思った。
ディアッカがにやにやしながら「シンに嫉妬してるんだよ」と耳打ちする。
まさかと眩暈がした。
「シンだって男だ」
「…あなた、やっぱり頭おかしいんじゃない?」
「お前がこんなじゃじゃ馬でなかったらハーレムに閉じ込めてる」
「それは残念だったわね」
腹を抱えて笑っているディアッカを小突きながら涼しい顔で言い返す。
するとイザークは今までに見たことがないような凶悪な表情をした。
「方法はいくらでもあるさ。楽しみにしていろ」
「…」
ぞっとするような声音だった。
まさかあれ以上のことをされるのだろううかという恐怖と、僅かばかりの期待。
相反する二つが混じり合った黒曜石の瞳には艶が滲んでいた。