コッペリア (後編) 〜ロドニアにて〜
―――イザーク。
イザーク、どこに行ってたんですか?
レイが尋ねると、イザークは膝を折って視線を合わせてくれた。
ここぞとばかりにレイはその腕の中に飛び込む。
もう、二度と話すまいと。
二度と独りになるまいと。
ぽたり、と。
熱い雫がレイの手に落ちた。
驚いて顔を上げれば、イザークの蒼い瞳から涙がこぼれている。
イザーク、泣いてるの?
悲しいの?
どこか痛いの?
レイは先程まで自分自身が泣いていたことなど忘れ、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
泣かないで。
泣かないで。
お願い、あなたは・・・悲しまないで。
その涙をぬぐおうとした時。
視界がぼやけた。
イザークの姿が霞む。
その存在が遠くなる。
―――イザーク。
・・・違う。
目の前にいる人は。
銀髪ではなく、淡い金髪。
瞳はアイスブルーではなく、鮮やかなセロリアンブルー。
体つきも全く違う。
探しに来てくれたのも。
抱きしめてくれたのも。
イザークではなかったの?
この人、だったの?
「ラ、ウ・・・っ」
肺に一気に空気が流れ込んできた。
一瞬息がつまり、レイはびくりと痙攣する。
視界が・・・暗い。
はっきりしない。
「いやホント、俺は別に何ともないですから」
・・・シン?
シンの、声。
知っている声を耳にしただけでレイの心に安堵感が広がった。
でも、本当にここはどこだっただろう。
明らかに自分とシンの部屋ではないのだが・・・。
頭がぼんやりして思考が定まらない。
「そうは言ってもね、念のためだ」
今度は別の声。
とっさに思い出すことが出来なかったが聞き覚えがあった。
「だが艦長も迂闊だよ。そんな場所へ君達だけで行かせるなんて」
「ちゃんとチェックはしながら入りましたよ」
そのやりとりで、ようやく自分の置かれた状況を思い出した。
ぱちっ、とパズルのピースがはまったように様々なことが頭を駆け巡って整理される。
ここはミネルバの医務室。
シンと話している男の声の主は艦の軍医だ。
自分は・・・倒れたのだ。
その時の状況がありありと脳裏に甦る。
ロドニアの研究所。
灰色の、あの空間。
簡単な言葉では形容できない雰囲気と薬品の匂い。
激しい頭痛と吐き気を覚え、うずくまってしまった自分・・・。
あまり記憶がないが、シンが慌てながらも外に連れ出して艦長に連絡してくれたのだろう。
そして今は倒れてしまった自分のとばっちりを受けているようだ。
―――大丈夫。
レイは心の中で自分に言い聞かせた。
そう言ってくれた人がいる。
イザーク・・・ではない。
ギルでもない。
脳裏に浮かんだのは、自分と同じ控えめな金の髪と空色の瞳をした男。
・・・思い出した。
自分をあそこから連れ出してくれた人がいた。
どうしてこんなに長いこと忘れていたのだろう。
幼い自分を育て、守り、慈しんでくれたあの人を。
ラウ・ル・クルーゼ。
大丈夫。
心に響く言葉はレイを包み込み、強くしてくれる。
イザークがいる。
ギルがいる。
ラウも・・・。
「レイ!」
体を起こしてカーテンを開けると、シンが驚いたように名前を呼んだ。
あれほどのパニック症状を起こしたレイを目の当たりにしていただけに、
平然としている今の様子をいぶかしんでいる。
「すみませんでした。もう大丈夫です」
レイはシンをあえて無視し、医師に礼を述べながらすばやく軍服をまとう。
まだ休むことを勧める言葉を丁重に断り、心配そうな顔のシンをそのままに足早に医務室を後にした。
大丈夫。
大丈夫。
レイはまだ頭の中でその言葉を呪文のように繰り返していた。
今すぐにイザークの声を聞きたかった。
ギルでもいい。
それから、ラウの声を・・・。
そこまで考えて、レイははっとして足を止めた。
ラウ。
どうして自分は彼のことを今まで忘れていたのだ?
そして、どうして今更になって思い出した?
あんなに大切な人だったのに。
大好きだった。
優しくて、強くて。
―――ねえ、ラウは?
レイの声。
レイの問いかけだ。
すぐに戻る、と言い残して出て行ったラウ。
ギルの傍でいい子にして待っていなさい、と。
でも彼はいっこうに戻る気配がない。
だから、尋ねた。
―――ラウはもう・・・いないんだ。
これはギルの声。
そう。
レイの問いかけに対し、ギルはこう応えた。
いない。
その意味を理解できないほど、レイは子供ではなかったはず。
少なくとも、「あの時」は。
―――でも、君もラウだ。
いない、という単語を緩和するように注ぎ足された、ギルの言葉。
その意味は・・・理解できていただろうか。
いいや、そんなことは問題ではない。
ラウがどうだとか、レイがどうだとか。
どうでもいい。
廊下で棒立ちになっているレイは、さらに奥深くの記憶を掘り起こそうとした。
しかし、その時。
「レイ」
名前を、呼ばれた。
今のレイにとっては最悪のタイミングでの、最悪のキャスト。
しばらく後になってからそれを知ることになるレイだが、混乱していた今はそんなことに気付くはずもない。
のろのろと首を声の方へと向ける。
「アス、ラン」
アスラン・ザラがそこに立っていた。
レイを見返す神妙そうな表情の中に、驚きのそれが見え隠れしている。
普段完璧なまでに心情を押し隠す自分が、今こんなに弱りきっているのがそんなに珍しいのだろうか。
じろじろ眺められ、息苦しくなる。
何だかアスランは苛立っているようにも見えたのだ。
「倒れたと聞いた・・・大丈夫か?」
「周りが大げさに言っているだけです。怪我を、したわけでもないですし」
自分を笑っているのだろうか。
軍人でありながら敵陣と思われていた場所で気を失うのは確かに恥だ。
それでもレイは、アスランが笑いたければ笑えばいいと思った。
自分を恥じたり、嘲笑してくる輩に憤ることなどどうでもいい。
それほど今は疲労していた。
頭がまだくらくらする。
―――大丈夫。
そう言ってくれる声が、いつの間にか消え去っていた。
医務室で目覚めた時とは逆に、不安と恐怖が胸に渦巻いている。
倒れそうだ。
早く部屋に戻り、今はとにかく休みたい。
しかし。
アスランはそれを許さなかった。
「誰かにすがりつきたいって顔してる」
「な・・・に・・・」
「慰めてくれる役は議長かな?まさかシンじゃないだろう」
レイは息をするのも忘れ、アスランに見入る。
こんな卑猥なことを口にする男だったのだろうか。
誰にでも優しくて気配りを忘れないアスラン・ザラが、軽薄な笑みを浮かべてレイを見下していた。
別人のようなそれが、ある顔と重なった。
・・・自分自身。
ユニウスセブン破砕直後、話しかけてきたアスランに対峙した時の、レイ。
あの時の自分の心情を思い出し、レイの背中に冷たいものが流れた。
嫌な予感がしたのだ。
固まっているレイを冷ややかな目で眺め、アスランの刃のような言葉は続いた。
「でも、イザークは駄目だよ」
「な・・・?」
「俺が、許さない」
「・・・なん、で」
上手く言葉が紡げない。
舌をもつれさせているレイに対し、アスランは腹が立つほどなめらかな口調だった。
「本国に行った時、イザークに会ったんだ」
いやいやと首を振る。
「嘘、だ!」
しかし否定したくても、イザークが本国にいたということはまぎれもない事実。
アスランがそのことを知っているとしたら。
「会いに来てくれた・・・ザフトに戻れって言ってくれたのもイザークだよ」
誰が望んだのでもない。
レイが拒絶したアスランの存在を容認したのは、イザークだと。
「違う・・・ッ」
違う。
違う。
そんなはずはない。
泥沼に引きずり込まれていくようだ。
いくら口で否定しても。
いつになく熱っぽいアスランの口調が、それは事実だと雄弁に物語る。
「そのあと二人っきりになって」
やめて。
やめて。
それ以上、言わないで。
「彼を、抱いた」
「・・・ッッ」
とどめ、だった。
開戦直後に連絡の取れなかったイザーク。
メールのやり取りは最近になって再開したが、何故か彼は映像も送れる電子通信を使おうとしない。
その理由は、もう勘ぐるまでもなかった。
「俺が今ここにいるのはイザークが望んだから」
脳裏に、アスランに抱かれるイザークの幻影が見える。
もはやその妄想を打ち払う気力さえなく、レイは真っ青な顔で棒立ちするばかりだ。
「イザークは俺のものだ。ずっと前・・・君が彼に会う前から」
イザークが想いを抱き続ける人がいることは、レイも何となく感づいていた。
・・・それでもいいと思った。
イザークはレイを大切にしてくれた。
愛している、と。
それを嘘だと思ったことはない。
「今は君のものだというのなら、奪い取ってやる」
アスランは言い放った。
まるで。
そこにしか自分の居場所がないように。
そこにしかなくなってしまったように。
つい半日前に会ったのを最後に、別人に変貌してしまったアスラン。
いつの間にか踵を返し、遠ざかるその背中を見やる。
イザークは奪われていたのか。
あの男に。
そして。
大丈夫。
そう言ってくれたラウはいない。
死んだ。
イザークがいない。
ギルがいない。
ラウがいない。
皆いなくなって、レイは独りきり。
その空虚な瞳に広がるのは、見慣れぬ景色。
―――そこには誰もいなかった。