アスラン脱走
―――シン、やめろ!
―――彼等の言葉は、やがて世界の全てを殺す!
―――どうしても討つというのなら、メイリンだけでも降ろさせろ!
―――シン!
シ ン !
無意識にかみ締めていた唇から、金臭い味が広がった。
すぐ隣を歩いていたレイに気付かれないよう、にじんでいた血を舐め取る。
目覚めてもなお、シンはまだ悪夢の中にいた。
彼の最期の叫びがまだ頭にこびりついている。
あるはずのないMSを貫いた感触まで、手のひらにじんわりと焼きついているようだ。
十数時間前、シンは仲間だった者たちの乗るMSを撃墜した。
撃墜・・・つまり、殺したのだ。
敵兵相手では当然だったその行為が、今は酷く恐ろしい。
自分は今まで、どうしてこんな非常なことができていたのか。
昨夜はずっと、頭で鳴り続ける彼らの断末魔を振り払おうと必死だった。
雷雨の中で、逃げるグフを貫くデスティニー。
あの情景が、エンドレスで再生し巻き戻すビデオのように脳内で上映されている。
日付が変わった今では一種の諦めのようなものが兆し、シンはただその悪夢を享受した。
痛みすら麻痺してしまったのかもしれない。
「シン、アスランとメイリンのことはもう忘れろ」
レイの声に、はっと意識を浮上させる。
いつの間にか廊下で立ち止まっていたらしい。
「お前は正しいことをやったんだ。奴らは裏切り者だ」
「・・・」
目を上げれば、レイがいつものように綺麗で整った顔でこちらを見ていた。
整いすぎている・・・感情のない人形のよう。
シンは目の前にいる同僚に、僅かな恐れを抱いた。
レイはどうして平気なのだろう。
確かに・・・確かにアスランとメイリンは裏切ったのかもしれない。
いや、そうでなくてはならない。
けれど。
アスランに何かと突っかかっていた自分より、レイの方がずっとアスランと上手くやっていたように思う。
メイリンだって貴公子風のレイにあこがれ、彼もその好意を感じ取っている様子だった。
なのにこの冷静すぎるまでの態度はどうだろう。
彼は一体・・・。
ちらりと頭の隅に浮かんだ考えを、シンは慌てて振り払った。
レイは大切な仲間だ。
家族を亡くしたシンの気持ちを理解してくれる、数少ない友人。
彼との友情を邪推してはいけない。
・・・きっと、アスランたちの一件で自分は疑心暗鬼になったいるのだ。
重い気持ちを振り払うように大股で歩みを再会したシンだったが。
十も数えないうちに、それは再び止まった。
廊下の先にいる人影に気付いたからだ。
シンが立ち止まっていると、相手もこちらに気付いて足を止める。
言葉では言い表し難い表情をしていた・・・おそらく自分もそうだっただろう。
「ルナ・・・」
ルナマリアは、酷く疲れた様子だった。
専用のMSを失い、負傷した時でさえ損なわれることのなかったあでやかさが疲労で霞んでいる。
メイリンのことで何か事情を聞かれたのかもしれない。
この様子だと、メイリンはアスランと共に死亡したこと、
しかもそう至らしめたのはシンだということも知っているはずだ。
―――俺は、ルナの妹を殺した。
目を背け続けていたその事実を認識した時、シンは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
そうだ。
自分は殺したのだ・・・彼女の肉親を。
アスハがマユを死なせたように、自分もまたルナマリアからメイリンを取り上げた。
先刻のデュランダルの功をねぎらう言葉も、レイの正論も遠ざかる。
自分はアスハと同類だったのだ・・・人の命を偽善によって摘み取る連中と同じ、卑しい人間。
ああ、何てことだろう。
自分自身に吐き気がして、そのまま床に崩れ落ちるところだった。
目の前に力なく立つルナマリアが、そこにいるだけで自分を責めているようでいたたまれない。
このまま逃げてしまいたかった。
だが、それができないことはシン自身が一番よく分かっている。
それこそ、アスハと同じイキモノになってしまうから。
意を決し、シンはルナマリアへと足を踏み出した。
一瞬びくりと肩を揺らしたルナマリアは、視線を下へと落とす。
その細い体は僅かに震えていた。
「ごめん・・・」
傍を横切った時に口から出てきたのは、謝罪と呼ぶにはあまりに陳腐な言葉だった。
自分への情けなさに、シンはすぐに足を止める。
こんな言葉では、償えない・・・。
いいや、何にかえたって妹を失った彼女への償いにはならないだろう。
ではどうすればいい?
どうすれば・・・。
その時。
立ち止まったシンの背中に、拳が叩きつけられた。
「・・・ッ」
「なんで・・・、なんでよ!!」
思わず漏れそうになったうめき声を堪え、シンはルナマリアからの殴打を受け入れる。
「なんで・・・こんな・・・なんでぇ!!?」
それは悲鳴だった。
背中の殴打とは比べ物にならないくらい・・・痛い。
そしてその痛みは間違いなく、シンが作り出したものだった。
初めは強かった殴打はすぐに力をなくしていく。
責問もすすり泣きに変わった。
ルナマリアが泣いている・・・。
それが何よりもシンの胸を締め付けた。
いつも明るくて、負けん気が強くて、輝いていた彼女が。
思わず振り返る。
うつむいた格好で泣いている彼女へ、抱きしめようと手を伸ばした。
泣かないで。
泣かないで・・・!
「いやっ!」
ばしりっ。
手をはじかれ、シンは呆然とする。
一方おかしな姿勢で相手を突き飛ばしたルナマリアの体はふらふらとよろめき、
やがて床に崩れ落ちた。
「・・・うっ、うううっ・・・!うわあああぁぁああっ」
激しい慟哭。
倒れるように床に突っ伏して泣き叫ぶルナマリア。
そんな彼女を、焦点の定まらない紅い瞳が見下ろす。
そこに映るのは、軍服をまとった少女ではなく。
肉塊となった家族を前に、半狂乱になって泣き叫ぶ無力な少年だった。
―――これは、俺だ。
身を引き裂かれるよりもつらい痛みに叫ぶ14歳の幼いシン。
その姿がルナマリアと重なった。
―――俺は・・・何をした?
とうとう足から力が抜け、ルナマリアと向かい合う格好でぺたんと座り込む。
泣き続ける少女にもはや手を差し伸べることもできず、ただシンは虚空を見つめていた。
―――俺は何をしたんだ?
14歳のシン・アスカを、自分自身で生み直したのではないか?
失った少女の慟哭は、まだ続いている。
奪った少年も罪の重さに動けず、ただ瞳に虚空を映すばかりだ。
一部始終を見守っていた観測者の姿だけが、ゆっくりと遠ざかっていった。
ルナマリアは、ずっとシンを見ていた。
ミネルバにアスランがやって来たときからは彼に夢中だったが、それでもシンのことは見ていた。
シンは年下で生意気で、手のかかる弟のようなもの。
鼻っからそう決め付けていたから傍らにいることを安心していたのかもしれないし、
シンもそうだったのだろうと思う。
そんな彼の様子がおかしいと感じ始めたのは、
連合のパイロットだったステラという少女がミネルバにやって来た頃だった。
自分とは違って順調に戦績を重ね、100点をとった子供のようにはしゃいでいた彼。
それがステラの存在を境にして、その瞳に暗い影を落とすようになった。
最初、ルナマリアはシンがステラに恋をしているのだと思った。
一度だけ医務室でステラを見たことがある。
自分と歳の変わらない可愛い女の子で、
それが体を改造されて酷く苦しんでいたのだから、連合に憤りを感じているのだろう、と。
だからシンがステラを連合に返してしまった時はびっくりした。
単純に理解できるようで、不可解な行動だった。
彼は、自分には見えないものを見ているのかもしれない・・・。
捕虜を独断で敵方に返したこと。
デストロイとの戦い。
ステラの死。
シンは確実にどこか深く暗い部分に陥っていた。
でもそれが何なのかルナマリアには分からない。
だから止めるすべも知らない。
でも。
でも、アスランなら。
アスランならシンを助けてくれる。
そう信じ込んでいた。
・・・いいや、きっとあれは「妄想」だったのだろう。
ルナマリアはアスランを見ていた。
見ているつもりだった。
少なくとも、シンよりはアスランのことを理解できていると・・・。
アスランはシンのことを心配しているように見えた。
時折きつい言葉を浴びせたり、シンの軽はずみな行動をたしなめたり。
真剣に考え込んでいたり。
いい人だと、素晴らしい上司だと思っていた。
思っていたのに・・・!
彼は自分たちのことなど、ミネルバのことなど見てはいなかった。
生まれ故郷であるはずのプラントですら。
彼が見ていたのはあのオーブの無能な首長で、正義の名の下にテロを続けるかつての同士。
ルナマリアに向けた優しい言葉も、シンへの先輩としての厳しい態度も。
全部嘘だった。
パイロット控え室にはすでにシンの姿があった。
レイはまだロッカーで着替え中なのだろうか。
シンがレイと一緒ではないのを見たのは久しぶりのような気がする。
エアドアの音にシンがこちらを振り向き、向けられた真紅の瞳からそっと視線を逸らす。
何を話したらいいのか分からなかった。
それはシンも同じだったらしく、焦点が頼りなく宙を彷徨っている。
やはり部屋を出た方が良いのだろうかと思案しかけるルナマリアだが、
それでは逃げているだけのような気がして嫌だった。
覚悟を決め、シンが立っている方へと歩き出す。
「・・・ルナ、あの」
シンより二、三歩離れた窓の前に立つ。
見下ろしたドックから、先ほどまで調整に没頭していたインパルスのコアスプレンダーがあった。
このヘブンズ・ベース攻略にあたって、シンからルナマリアに委譲された機体だ。
「すごいね、インパルス」
「・・・」
「私に、扱えるかな・・・」
「ルナ・・・」
シンは、何かを言いたがっている。
でもそれを言葉として口に乗せることができず、苦しんでいる様子だ。
「ルナ、俺は・・・」
「私、ロゴスと戦うわ」
「え?」
ルナマリアは顔を上げた。
視界の端に、ガラスに映ったシンの顔が見える。
「ロゴスと戦う・・・。だって、それしかできないもの。
私、シンみたいに強くないけど・・・インパルスも、きっとまだ使いこなせないけど、でも・・・」
「だ、大丈夫だよ!」
身を乗り出してきたシンの気配に、思わず振り返ってしまった。
「シン」
「大丈夫・・・ッ、ルナは、インパルスは俺が守るから」
「・・・」
「だから・・・だから、その」
「嫌よ」
唇を割って出てきたルナマリアの言葉に、シンは赤い瞳を大きく見開いた。
しかしそれは一瞬で、瞳はすぐに揺れ、潤んで伏せられる。
「私、あなたなんかに守ってもらいたくない」
当然だ、と思っているのだろうか。
アスランと妹のメイリンがシンに撃墜され、
二人して廊下で嬰児のように泣き喚いたあの時から、まだ日が経っていない。
やはりルナマリアは、自分を憎んでいるのだ、と。
しかし彼女が次に続けた言葉に、シンは今度こそ驚いた。
「守るのは私よ!」
「・・・ルナ」
「私・・・私が守るの!プラントを・・・ミネルバの皆を。そのために軍人に、パイロットになったのよ・・・」
「ルナ、俺は・・・」
「だから・・・ッ」
「!」
「だから、あなたを責めない」
シンは息を止める。
ルナマリアの言葉がぐるぐると頭を駆け巡った。
責めない?・・・妹を殺した自分を?
そんなことが起こりえるなんて思いもよらなかった。
「あなたを責めない・・・私、軍人だから。許せるかどうか分からないけど、あなたを責めないから」
沈黙が降りる。
ルナマリアはこれ以上は何も語ろうとしなかったし、シンはかける言葉を見つけられなかった。
エアドアの音がして、パイロットスーツに着替えたレイが現れる。
同時に離れていくルナマリアの背中を、シンはぼんやりと見つめていた。