リリアナ
何だここは。
暗い、な。
でも何だか暖かい・・・いや、冷たい?
とにかく気持ちがいい。
―――・・・無事に戻ってきてくださいね。
誰の声・・・シホ?
そうだな。
戻らないとな。
でもどうやって?
―――イザークは、いつも破ってばっかりです!
約束?
そうだな、すまないな。
結局結婚式を挙げられなかった。
お前のウェディングドレス見たかったのに。
あれ、違う約束だったか?
俺は。
俺は・・・。
―――・・・破らないよ。今度こそは。
―――生きて、プラントに戻って・・・また愛しいお前とリリアナを抱きしめに行くから。
・・・。
まったく、我ながら聞いて呆れる。
こんな偉そうなこと言っておきながら、こてんぱんにやられたからな。
いいところまで行ったのに。
シホ、俺は死ぬ気なんてなかったんだぞ。
でも・・・まあ、あれだ。
相手がバケモノ(キラ・ヤマト)だったから。
あの距離であれをぶっ放されるとは思ってなかったんだよ。
気絶する前に、身体に破片やら何やら色々突き刺さったのを覚えてる。
ああ、こりゃ駄目だな。
・・・だけどきっと、あのバケモノだけは生き残るんだろう。
そんな気がする。
不条理だな。
ミネルバは俺がいなくても心配ない。
グラディス艦長が上手くまとめてくれるだろうし、シンもルナマリアもいる。
俺に万一のことがあった時の手はずも整えているし。
あ、レイは無事かな?確認できなかった。
・・・まあ大丈夫だろう、結構しぶといやつだし。
シホ。
シホ、ごめんな。
約束したのに。
リリアナもごめん。
一度しか抱いてやれなかったな。
でもお前のお母さんは強いから・・・多分。
女手一つでも子供は結構たくましく育つもんだ。
俺の保障つきだから大丈夫・・・一応白服まで出世したんだぞ?
だから。
シホ。
お前が、あまり泣かないといい。
シホ。
約束したのに、な。
・・・すまない。
「そう。・・・報告はなるべく小まめに頂戴」
タリアはため息混じりにモニタごしの軍医に呟く。
相手が頷いたのを確認し、すぐにチャンネルを切り替えた。
ブリッジの空気は重い。
敵軍はほぼ壊滅状態になって撤退し、自分たちの勝利ははっきりしている。
それでも彼らの顔に喜色が見えないのは、イザーク・ジュール負傷の知らせだった。
出血多量で心肺機能も一時停止し、医務室に運び込まれて三時間が経過した今でも意識不明の状態が続いている。
医師の話では、コクピットから引きずり出されるのがもう少し遅かったら助からなかったという。
だからといって。
今の状態から回復する可能性が決して高いわけではなかった。
このまま意識が戻らないまま息を引き取る可能性が50パーセント。
生き延びても植物状態になる可能性が30パーセント。
意識を回復する可能性は・・・。
「艦長」
アーサーの声に、意識を飛ばしかけていたタリアははっとした。
気遣うような視線の副官は、しかし、敢えて事務的な口調で敵軍の状況を告げる。
突き放すようなそれが彼なりの気遣いだと言うことを知っているタリアは、アーサーに心の中で感謝した。
「《ネイビー》はかなり酷い状態ね・・・」
「はい。同士討ちまで始まっているようです」
「まだ周辺にいる部隊には手を引くように勧告して。巻き込まれてこっちまで混乱するわ」
「了解しました」
「《オーカー》は?」
「最初から最後までずっと出てきませんでした。見てるだけでしたね」
「・・・そうね。もう監視は必要ないでしょう。引き上げさせて」
「《クラレット》も混乱が見えます・・・。こちらはどうしますか?」
「・・・射程距離内に入るようならコンディションをオレンジからレッドに。二十分後にまた対処を考えるわ」
「了解」
《ネイビー》は地球軍。
《オーカー》はオーブ軍。
そして《クラレット》はAAとエターナルを中心としたクライン派。
ザフトは戦闘に入る前から、敵軍を「色分け」していた。
これは今回の遠征軍が、あまりに特色の違う三つの集団の寄せ集めだったことによる。
イザークはこちらの脅威となるものとそうなりえないものをあらかじめ分け、それに適した対処を考案した。
青・・・《ネイビー》の地球軍は戦闘直後に戦列を乱し、
黄・・・《オーカー》のオーブ軍は後ろからなかなか出てこない。
末端の兵士にも相手の特色は伝えてあったので、かなり冷静な態度で戦闘に臨んだ者が多かっただろう。
被害は数パーセントほどだった。
そういう意味ではイザークの提案はかなり効果のあるものだったといえる。
問題はピンク・・・《クラレット》だ。
フリーダム、ジャスティス、アカツキを有していることは前もって分かっていたが、
イザークであっても彼らに対処する策は持ち合わせていなかった。
連中がどう動くか。
分かっていたのは友軍の動きによってある程度制限できるということだけ。
こればかりは運任せだった。
結果。
アカツキはシン・アスカのデスティニーによって撃墜が確認された。
元々注目されていたのは機体性能だけで、パイロットは大したことがなかったらしい。
ジャスティスはアイスファングに後一歩まで追い詰められたものの、フリーダムの乱入で撃墜には至らなかった。
そして、フリーダム。
撃墜は、確認されなかった。
「レイ、休んできなさいよ」
声をかけられ顔を上げれば、ルナマリアの心配そうな顔があった。
差し出されたタオルを無表情で見やれば、ため息と共に顔をごしごしとこすられる。
そこでようやくパイロットスーツのままの自分が血まみれだと言うことに気付いた。
「せめてシャワー浴びてきなさい。医務室の前で不衛生な格好のままいないで」
「・・・分かっている」
「ジュール隊長の容態に変化があったらすぐ知らせるわ。男の裸は見慣れてるから、ゆっくり入浴してても大丈夫よ」
「・・・そうか」
嫁入り前の娘が何てことを言うのだと思ったが、シンとの関係は公認だし、突っ込もうにも気力が沸いてこない。
先程から頭の中をいろいろなことが駆け巡って、どうにも気持ちが重かった。
言われた通りにロッカールームに戻ろうとして、しかし、レイは数歩で足を止めた。
後ろを振り返り、ルナマリアのブルーバイオレットの瞳を覗く。
「・・・ルナマリア」
「なあに?」
「お前、俺がアイスファングを確保するところを見てたよな?」
「・・・まあね」
レジェンドに続くようにしてフリーダムとアイスファングの交戦場に辿り着いたのはインパルスだった。
だから。
ルナマリアは見ていたはずだ。
そして・・・気付いた。
レイの人生最大の選択と言うやつを。
爆煙の中に飛び込んだレジェンドが見たのは、原型を辛うじてとどめているイザークのアイスファングと、
バラエーナを近距離で強行発射したためにやはりぼろぼろになって動けないでいるフリーダムだった。
当然レイの頭に、二つの選択肢が浮かぶ。
動けないでいるフリーダムに止めを刺す。
・・・だが、そうするとアイスファングにまで衝撃が及ぶ。
それほど二機の距離は近かった。
あるいは、アイスファングの回収を優先する。
イザーク機をある程度引き離してから攻撃すると言う手もある。
だが、アスランのジャスティスがフリーダムに追いついて守ろうとするだろう。
憎きキラ・ヤマトはまたしても生を長らえることになる。
ジャスティスはすぐそこまで迫っていた。
もしここでレイとアスランが戦闘に突入すれば、まっさきに被害を被るのはアイスファングだ。
傍目にも、もういつ潰れてもおかしくない損傷だった。
たった、5秒。
たったそれだけで、レイは判断を下さなければならなかった。
「あなたは、ジュール隊長を選んだ」
「・・・」
「軍人として恥ずべき行為とは思わないわ。
だって、優秀な指揮官がいなくなったら、これからの勝率が下がるじゃない」
「本当に、そう思うか?」
「今回の戦闘は、事実上ザフトの勝利よ。だったらこれからのことを考える方が懸命だわ」
「・・・」
「私個人としては、感謝してる」
感謝、の言葉に、レイは驚いたように顔を上げる。
すると何を驚くことがあるのかとルナマリアからは逆に睨まれた。
「ミネルバの皆がそうだと思うわ。皆・・・ジュール隊長のことが大好きだもの」
「・・・俺は」
「レイ」
ルナマリアはレイの名前を優しく呼ぶと、歩み寄る。
レイが知る、どれよりも甘くて優しい声だった。
ルナマリアがレイの手を握り、微笑む。
「ジュール隊長を助けてくれて、ありがとう」
シャワーを浴びて部屋に戻ると、いつの間にか戻っていたシンがベッドに潜り込んでいた。
彼も疲れたのだろう。
因縁のオーブのMSであるアカツキを墜とし、また株が上がったはずだ・・・本人はどうでもいいだろうが。
彼のベッドを通り過ぎて上着を取ろうとすると、気配に気付いて目を開けた。
「すまない。起こしたか?」
「・・・平気」
どうやら眠ってはいなかったらしい。
よく見れば目の下にくまができていた。
白目の部分も赤く、ただでさえ大きな赤い瞳が今ではうさぎのそれのようだ。
「大丈夫か?気分が悪いのか?」
「・・・血にびっくりしただけ」
「そうか」
短く簡潔なシンの言葉に合点する。
イザークをコクピットから引きずり出した時、撒き散らされた血液の粒にシンは動揺していた。
ルナマリアが必死になだめていたが、ちらりと見た顔が青白く、身体が震えていたのを思い出す。
一年前と比べて大人しくなったシンは決して精神状態が安定したわけではない。
あのステラという少女がそうだったように「死」を恐れている。
その恐怖を打ち消す手段として普段の感情を可能な限り殺しているだけだ。
先のイザークの大量出血のように「死」を連想させるものは、
大切なものを失い自らも殺されかけた過去の悲しみ、痛み、挫折を呼び起こして彼を苦しめる。
しかしシンの力とMSの技術は今のザフトには必要なもの・・・精神状態を理由に戦場から解放してやることはできない。
結果的に、イザークとタリアのシンとルナマリアを引き離さないと言う一年前の処置は正解だったのだろう。
「隊長は?」
「まだ・・・分からない。今はルナマリアが見てくれている」
「・・・」
「交代しに行って来る。ルナマリアにはここに来てもらおうか?」
シンに必要なのは、彼の力のみを利用しようとしたレイではなく、彼自身の存在を許し受け入れてくれたルナマリアだ。
今ではレイもそれがはっきりと分かっていた。
自らの死期を感じ始めてからはなおさら・・・。
だがレイの提案にシンは首を振った。
「俺も行く。隊長に会いたい」
「・・・しかし」
「分かってる」
「・・・ッ」
シンは起き上がるとハンガーにかけてあった上着に手をかける。
彼もイザークの状態は聞いているはずだ。
それなのに・・・また「死」を見るかもしれないのに行くと言う。
怖いはずだ。
それでも。
―――私個人としては、感謝してる。
―――ミネルバの皆がそうだと思うわ。皆・・・ジュール隊長のことが大好きだもの。
―――ジュール隊長を助けてくれて、ありがとう。
イザークは凄いな、と思う。
ミネルバでは階級はともあれ、一番の新参者だ。
それなのに、こんなに慕われている。
アスランなどとは大違いだ。
「行こう。レイ」
「・・・。そうだな、行こうか」
ゆらゆらと身体が揺れている。
不思議な感覚だった。
ああ、あれだ。
無重力に放り出されて漂っている感覚。
でもそれ以外は何も感じない。
外気も。
音も。
色も。
自分の気配すら。
やはり自分は死んだのかな、とイザークはぼんやり思った。
前後の記憶が曖昧だが、自分が戦闘をしていたということだけは身体が覚えていた。
体を襲った鋭い痛みも。
今はその痛みも感じない。
―――死んだのか?
じゃあ今のこれは何だ?
夢か?
死んでも夢なんて見るんだろうか。
それともすでにあの世とやらにいるのだろうか。
分からない・・・。
分かっていることは唯一つだった。
―――帰りたい。
脳裏に浮かぶ黒髪の女性。
この女しかいないとイザークに思わせた最愛の人。
約束とか。
義務とか。
どうでもよかった。
彼女に触れたかった。
声を聞きたかった。
引き寄せて抱きしめたい・・・。
ここではそれができない。
全ての感覚を殺されているこの空間では。
―――帰らなければ!
願望ではない。
これは意志だった。
ここを出なければ・・・!
死んだ?
それなら生き返ってやる。
イザークは必死にもがいた。
手足の感覚などなかったが、そんなものは関係なかった。
出口を捜して。
這い出て。
会いに行く。
会いに・・・。
ふいに。
喉に焼け付くような痛みを感じた。
声を発することを遮るような、射すような感覚だった。
それでもイザークは叫んだ。
喉が張り裂けてもかまわない。
ここで諦めたら終わりだと、本能で分かった。
最愛の人の名を。
「シ、ホ・・・ッ」
視界が。
開けた。
ピピピピピ・・・。
鳴り響いた着信音に、タリアはびくりと身体を震わせた。
それはブリッジにいたアーサーを始め他クルーたちも同様で。
タリアが受話器を取り、耳を傾ける。
その間、全員が無言だった。
「そう・・・そう・・・。ええ、分かったわ。ご苦労様」
タリアは相手側の言葉に何度かうなずき、相槌を打つ。
そして、ゆっくりと受話器を元の場所に戻した。
かちゃり、という音が嫌に耳に付いた。
沈黙は続いている。
だがそれに耐え切れなくなったのはアーサーだった。
「艦長・・・ッ」
「・・・」
「今の、医務室からですよね?あの・・・ジュール隊長は!?」
「・・・」
「・・・」
「危機を脱したそうよ」
一瞬、タリア以外の全員の思考が真っ白になる。
それに対し、タリアはにっこりと笑った。
「意識も回復して、もう心配要らないって。彼は助かったわ」
「い・・・いやったぁっぁぁあああ!!!!」
アーサーの雄叫びに呼応するように、クルーたちが歓喜の声を上げる。
今回ばかりはタリアも咎めず、一時期の興奮を許した。
作戦は成功した。
誰も犠牲にならずに済んだ。
全てはここにいる仲間たちの功績だ。
これ以上の喜びはなかった。
「じゃあ、じゃあ・・・本当に大丈夫なんですね!?」
「ああ。大した生命力だよ。まだ会わせてあげることはできないが・・・」
医師の説明を最後まで聞かず、シンとルナマリアはきゃあきゃあと手を取り合って小躍りしていた。
女子学生のノリだ・・・。
レイはと言えば、イザークの意識が回復したという知らせを聞いた途端に腰を抜かして座り込んでしまった。
情けない・・・。
これでは黄色い声で騒ぐシンとルナマリアを咎められなかった。
ようやく騒ぎ済んだのか、ルナマリアは「そうだ!」と両手のひらを合わせた。
「ジュール隊長の奥さんに連絡しなきゃ・・・お母様にも!」
「連絡先知ってるの?」
「艦長に聞いてくる!シンとレイはここお願いね!」
そう言ったが最後、ルナマリアの姿はあっという間に遠ざかっていた。
さすが、そういう気配りは女性ならでは・・・しかも有言即実行。
ルナマリアが行ってしまうと、シンは未だ地べたに座り込んだままのレイに歩み寄る。
そしてしゃがみこんで顔を覗き込んできた。
「レイ、良かったね」
「・・・」
イザークが助かって良かった。
そう言ったシンの顔は、邪気のない満面の笑顔だった。
最近すっかり感情を取り落としたかのように思えたシンが、こうやって笑っている。
それを目にした瞬間。
レイは心の中に凝っていた霧が晴れていくのを感じ取っていた。
「レイ?」
「そう・・・だな、良かった」
レイも笑う。
こんなに晴れやかな気分は初めてだった。
「俺も、嬉しい」
戦闘から三日経ち、《ミネルバ》は本国へと舵を取っている。
予定通りならあと二日足らずで到着するはずだ。
重傷を負い、一時は心肺機能が停止したにもかかわらず一命を取り留めたイザークは、
医師の許可をもらって自室へと戻っていた。
それでもまだ軍務に戻ることは困難である上とにかく傷が深い。
レイとルナマリアが様子を見に来た時、ちょうど彼は鎮痛剤を打たれて眠っていた。
ベッドに近づくと、つんとした消毒液の匂いと規則正しい寝息が聞こえる。
レイとルナマリアは顔を見合わせ、なるべく音を立てないようにして用意されていた椅子に腰掛けた。
「こうして見ると、隊長ってやっぱり美人よね」
「男への褒め言葉じゃない」
「知ってるけど・・・でもレイも美人よ」
「どうも」
「シンは『可愛い』」
「・・・お前は『男前』だな」
そんなことを言いながらイザークの綺麗な寝顔を覗き込んでいたが、
やがて二人の視線は所々に置いてある写真へと泳いでいた。
イザークの部屋には前にも入ったことがあるが、とにかく写真立ての多い部屋だった。
同じく写真好きのルナマリアはボードに手当たり次第に貼り付けているようだが、
イザークは十数枚のそれらを全て凝った造りの写真立てに入れて飾っている。
レイはそれらを意識して覗いたことはなかった。
なまじ写真立てが立派なせいか、何だか相手のプライベートをのぞき見ているような気がしたからだ。
するとおもむろにルナマリアが立ち上がり、一つの写真を手に取る。
「ねえねえ、見てよレイ」
「他人の私物を勝手にいじるな」
「硬いこと言わないで・・・ほら」
「・・・」
ルナマリアが写真立てを裏返し、中の写真をレイへと向ける。
視界に飛び込んできた思わぬものに、レイは咎めるのも忘れて瞳を瞬いた。
それは、赤ん坊の写真だった。
イザークと同じ銀色の髪と、アイスブルーのくりくりとした瞳。
レイにとっては全く未知の生物。
「これ・・・は・・・」
「きっと隊長の娘さんよ。髪と目の色がそのままねぇ。可愛い!」
「むすめ・・・」
そうだ。
そういえばそんなことを聞いたこともある。
イザークはプライベートはあまり口にしなかったが、気安いルナマリアには話したのだろう
・・・いや、吐かされたのかもしれない。
ミネルバに配属されたばかりの頃に婚約者がいたことはレイもデュランダルから聞かされている。
だが、それにしても随分大きいような・・・この写真で判断しても生後半年前後に見える。
ミネルバが一年の間に本国に戻れたのは10ヶ月前と先月の二回だけだから、
婚約していた時にはすでに相手は妊娠していたと考えるのが妥当だ。
イザークは妻と結婚式も挙げられず、生まれたばかりの娘と直接会ったのは一、二度ということか。
軍人の宿命と言えばそれまでだが・・・。
ふとデスクの上を見れば、また別の写真立てが置いてあった。
レイはルナマリアを咎めていたことを棚に上げ、それを手に取る。
同じ赤ん坊と一緒に、母親・・・つまりイザークの妻と思われる女性が映っていた。
黒髪に黒い瞳の、控えめだが凛とした美女・・・いや、美少女という表現が妥当か。
歳は自分たちとさほど変わらない。
彼女の腕の中で、丸々と太った赤ん坊は幸せそうに笑んでいた。
「名前はね、リリアナちゃんっていうのよ」
「リリアナ?」
「娘さんの方。愛称はリリィ。奥さんの名前はシホさん」
「・・・そうか」
あの不遜で癇癪持ちなイザークの娘と妻・・・。
不思議な心持ちで写真を凝視する。
「レイはね・・・」
ふと呟いたルナマリアの声に耳だけ傾けた。
シンの大好きな、優しくて甘い包み込むような声音。
「レイはね、この子のお父さんの命を救ったのよ」
「・・・」
「リリィはお父さんを失わないですんだの。レイのおかげよ」
「・・・俺が」
救った?
自分が?
自分などが、他人を助けることができるのか。
それはレイにとって純粋な驚きだった。
救うとか、守るとか。
力のない、しかも作り物の命しか持たない自分には、崇高すぎて手の届かない行為だと思っていた。
「レイが守ったの・・・」
多大なる力はいらなかった。
レイにあったのはとっさの・・・正しいかどうかも分からない決意だった。
結果を伴うのに力は必要だが、不可欠なのは相手を思いやること。
イザークがいつもしているように。
―――イザークが目を覚ましたら・・・。
今度こそ正面から向き合って話しをして見たい。
シンとも、ルナマリアとも、タリアとも。
レイは心からそう思った。
彼女が現れた時、シンだけでなくレイも言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまった。
食い入るような視線を向けられ、ルナマリアは心もとなそうに両手を前で組む。
普段の彼女とは別人だった。
「やあルナマリア。綺麗にしてもらったね」
ただ一人、いつもと変わらぬ柔和な笑みを浮かべたデュランダルがルナマリアに歩み寄る。
慣れた様子で彼女をエスコートするのに嫌味は感じられず、さすが腹芸の得意な政治家といったところか。
レイは育ての親のにやけた面に、水をぶっ掛けてやりたい衝動を必死に堪えた。
前回のクライン派との直接対決から3週間。
プラントが勝利に沸くのに対し、クライン派はよほどの打撃を被ったのか月基地から動こうとしなかった。
ザフトも本国を守護する軍を割いてまでそれを攻撃しようとしなかったため、戦況はまたしても膠着している。
ゆえに本国に戻ったミネルバクルーは久々の長期を満喫することになったのだ。
とはいっても家族のないシンやレイはずっとミネルバに居残っていたわけだが、
昨夜になって急遽デュランダルから二人に護衛の依頼が舞い込んだ。
呼び出された豪奢なホテルを目の前にシンはただ目を丸くするばかりだったが、レイはすぐにここで何が行われるのかを察する。
いわゆる献金パーティーだ。
資産家たちが集まり、彼らに接待をする見返りに・・・というあれだ。
表向きはパーティーの参加費用として受け取るそれは、一般人には莫大な金のはず。
どの国でもある政治家のウラの金集めだが、今のような戦時中であればそれも許容される。
連勝が続いているため、金も集まりやすいだろうが・・・。
赤服のシンとレイは「護衛」という名の見世物パンダと言ったところだろう。
少々うんざりしながら待機室に足を運んだのだったが、先客としてそこにいたのがルナマリアだった。
「タリアにも是非と声をかけたのだがね・・・。すげなく断られてしまったよ」
だから彼女に頼んだんだと微笑むデュランダルの言葉は、もしかしなくともシンの頭を素通りしているはずだ。
完全にフリーズしている同僚に、レイは心から同情した。
「ルナマリア・・・その・・・」
「分かってるわよ。似合ってないって言いたいんでしょう」
そう言って目を逸らし、むくれる彼女は何故だか普段より色っぽい・・・と思いかけ、レイは慌てて邪念を振り払った。
「そうじゃない。むしろ似合って・・・いや、その先はシンに言ってもらえ。
俺が聞きたいのは実家に戻ってるはずのお前がどうしてここにいるかということで・・・」
「護衛の依頼が来て・・・あんたたちも来るって言うから」
「・・・議長」
この狸め、とにらみつければ、デュランダルは涼しい顔で受け流した。
シンが石化するのも無理はない。
レイたちより一足先に呼ばれて準備していたというルナマリアは、薄紫のドレスを着た清楚な淑女となっていた。
ドレスは胸元を完全に隠してはいたが、体のラインを強調するタイプで彼女のスタイルの良さを引き立てている。
背中まで伸びていた赤い髪は軽く結われてパールをあしらった髪留めで飾られ、顔には薄く化粧が施されていた。
もともと目鼻立ちの整っているルナマリアは普段から滅多に化粧等をしない。
そんな彼女を見慣れているシンとレイにすれば、唇にグロスが塗られているだけで普段と全く印象が違って見えてしまう。
しかも慣れない格好に戸惑っているルナマリアはいつもの覇気がなく、
知らない人間にはよく教育された資産家の令嬢にしか見えないだろう。
「ゴシップ誌にロリコン説を流されても知りませんよ」
「随分だな」
「ルナマリア以外にも該当者はいるでしょう?いくらグラディス艦長に断られたからって・・・艦長はこのことを?」
「知らないよ」
「・・・先に断っておきますが、ばれても俺はかばって差し上げませんよ」
「最近のレイは冷たいな」
「最近の議長は調子に乗りすぎです」
すげなく言い返せば、デュランダルは少し情けなさそうな顔をした。
タリアに似てきたなともごもご口の中で呟いているが聞こえない振りをする。
「心配しなくとも、ルナマリアにやましいことをするわけがないだろう?
ただ女性をエスコートしないと格好がつかないパーティーなんだよ」
「いい気なものですね」
「レ、レイ・・・」
たまりかねたようにルナマリアが口を開く。
仮にもプラントの最高権力者に手厳しい非難を口にするレイに驚いているのだろう。
シンはルナマリアを取られて面白くない顔をしているものの、それでもレイとデュランダルの空気に心配そうだ。
だがレイにとってみれば、デュランダルは尊敬すべき人物である前に家族なのだ。
慎むべきと感じれば忠告をするのは当然のこと。
だがデュランダルは大して堪えた様子もなく、ご機嫌斜めだな、と苦笑しただけだった。
ルナマリアをエスコートしながら客に愛想を振りまくデュランダルを、レイとシンはスピーチ席の真脇で眺めた。
表向きは護衛だが、部屋の入り口と窓には客にまぎれた警備兵の精鋭が配備されている。
それを知らされたシンはようやく自分たちがお飾りだということを認識し、ひたすらルナマリアへと視線を注いでいた。
デュランダルや他の客が美しく着飾った彼女におかしなことをしまいか、心配で堪らないのだろう。
ありえないと分かっていても、必要以上に気にしてしまうのが人間というものだ。
そうでなくともシンはその精神状態をルナマリアの存在によって保っており、本人もそれを自覚している。
彼の世界はほぼルナマリアで構成されていると言っても過言ではないのだ。
レイはレイで、自分たちを見世物にするデュランダルに腹を立てていた。
と、そんな理由で二人は並んで殺気立っていたのだが、そこへあえて近づく人物がいた。
レイが気付き視線を向ける。
議員服の男だ・・・評議会関係者か。
年齢は30歳前後で鳶色の髪と鋭い切れ長の瞳をしている。
どこかで見た顔のような気がするが・・・。
「レイ・ザ・バレルとシン・アスカだね?」
「はっ・・・」
レイが返事をして敬礼すると、ようやく男の存在に気が付いたシンも慌ててそれに倣う。
男は少しだけ表情を柔らかくし、手を上げて敬礼は必要ないと示した。
「はじめまて、シグ・バートリーだ。一年ほど前からデュランダル議長と一緒に仕事をさせていただいている」
「・・・あ」
ようやくレイは記憶の一端から彼の顔を掘り起こした。
見覚えがあったのは、デュランダルと一緒にいるのをテレビで何度か目にしていたからだ。
秘書、あるいは側近の立場にあるのだろう。
「君たちと一度話してみたくてね。議長からはよく話を聞いているけれど」
そう言いながら二人を見るシグは、年若いせいか誠実そうな雰囲気をまとっている。
もちろん政治家である以上、腹では何を考えているか分かったものではないが。
するとシグはきょとんとしているシンへと話しかけた。
「君の方がシン?ルナマリアさんのことはすまなかったね」
「?」
「どういう意味です?」
「いや、実は・・・インパルスのパイロットが女の子だということを聞いていたから。
あの人がグラディス艦長に相手役を断られた時につい・・・」
「ルナマリアを勧めたんですね?」
「・・・その時は冗談のつもりだったんだよ」
まさか本当に呼び出すとはね、とシグは肩をすくめる。
その様子にレイはげんなりし、シンは怒ってよいものかどうか分からず眉根を寄せた。
ルナマリアからしてみれば、最高評議会議長の呼び出しを断ることなどできようもないだろうに。
まあシグとしてもそれは分かっているから恋人のシンに謝っているわけだろうが。
「でもあんなに綺麗な子だとは思わなかったな」
そう言いながら、シグはデュランダルの傍らにたたずむルナマリアを眩しそうに見る。
確かに傍目には彼女が軍人で、しかもエースパイロットであることなど信じ難い。
プラントのためにその身を危険に投じる、天才美少女パイロット。
ミーア亡き今のザフト軍をアピールし、美化するのに彼女以上の存在はないのかもしれない。
「どこから見ても、華も恥らう無垢な乙女じゃないか」
「普段はとんでもないお転婆ですよ」
「・・・レイ、俺の彼女なんだけど」
「事実だ」
「あははは。僕もおしとやか過ぎるより、はつらつとした子の方が好みだけどね」
シグは見かけほど堅物ではなく、どちらかといえば陽気な性格だった。
しばらく他愛もない話をし、すっかりレイとシンの心を解きほぐしてしまった。
「ところで・・・」
話が一段落したところで、レイとシンは彼の声の温度が下がるのを敏感に感じ取った。
ここから話すことこそが、自分たちに近づいてきた最大の理由だろう。
「あまり楽しい話じゃないが、応えてほしい。・・・先のクライン派との戦闘のことで、だ」
「いくら議長の側近の方とはいえ・・・」
軍機密は口にできない、とレイは続けようとしたが、首を振るシグに言葉を飲み込んだ。
聞きたいことはそういうことではないらしい。
「おかしなことだとは思うがね・・・連中と戦った印象を聞きたいんだ」
「印象、ですか?」
「ああ。どんな風に感じたとか、具体的なことでいい。違和感とか」
まさかそんな質問をされるとは思ってもみなかったレイとシンは顔を見合わせる。
そんなことを一文官が知ってどうなるというのだろう。
大体戦闘をする相手に感情など寄り添わせはしない。
「ザフトと連合が戦闘をしていた時・・・つまり無関係だった時も、
戦闘を止めろといいながらあたりかまわず銃を乱射していた連中です。
違和感も何も、もともと正常ではありませんよ、あいつらは」
「・・・うむ」
「クライン派に何か変化でもあるというのですか?」
「・・・まあ、ね」
シグは言葉を濁す。
これ以上は話したくないのか。
極秘に掴んでいる情報に基づいて、実際に戦った自分たちに探りを入れたといったところだろう。
「そういうことなら、我々の上司のジュールを紹介しましょうか?連中と直接面識もあるし、独自に調査も・・・」
「いいや、ジュール隊長にはたった今会って来たんだ。話も聞いたよ」
「そうでしたか・・・って、え!?」
思わず納得しかけたレイはしかし、シグの言葉に目を剥く。
シンも首を傾げた。
「ジュール隊長がここに来てるってことですか?」
「そうだよ。知らなかったのかい?」
「・・・ギルの奴」
「は?」
「いいええっ」
つい口を付いて出た悪態に耳を疑ったシグに、レイは慌てて何でもないとジェスチャーする。
「で、でも。あの人はまだ入院を・・・」
「らしいね。昨日退院したばかりだそうだ」
「予定より早かったんだ」
シンの呟きに、レイも思わず頷いた。
イザークの退院はあと二、三日先だったはずだ。
一昨日二人で見舞いに行った時、本人から直接聞いたから間違いない。
だがその時はすでにリハビリを開始していたし、医師に経過は良好だと言われていた。
このパーティーに合わせて特別に許可をもらったのかもしれない。
「レイ、隊長に会ってくれば?一番心配してたじゃないか」
「え?いや、しかし・・・」
「俺は後でルナと一緒に行くよ」
「・・・」
シンの突然の提案に、レイはどうしたものかと返事に窮する。
飾りに過ぎない自分がここを離れたからといってどうもならないだろうが、かといってシンを一人置いていくのは気がひけた。
するとレイの心情を察したらしいシグが、行っておいでとさらに後押しし始める。
「身体に障るから、あまり長居はしないと彼は言っていたよ」
「じゃあ急がなきゃ、レイ」
「あ、ああ・・・」
二人に急かされ、レイはとうとう折れた。
シグに一階下の小展示場だと教えられ、出口へと足を向ける。
そんな彼の背中に、シグが思い出したように声を掛けた。
「そういえば、彼はルナマリアに負けず劣らずの美女・・・しかも三人に囲まれていたよ」
シグに教えられた場所に向かいながら、レイはイザークに何を話せば良いのか考え込んでいた。
一昨日見舞いに行った時も、主にしゃべっていたのは一緒にいたシンの方だ。
イザークが危険な状況を脱したと聞かされた時、彼とじっくり話したいと思った。
真っ直ぐに向かい合って、己の正直な気持ちをさらけ出してみたいと思った。
でも。
実際イザークを前にすると何を話せばいいのか分からなかった。
イザークがまだ治療中で弱っていたことや、シンが傍にいたこともあるかもしれない。
そもそもレイはイザークに何を求めているのだろう。
どんな言葉を期待しているのだろう。
―――お前の命はお前のものだ。
一年前のあの時、イザークはレイにそう言った。
そしてレイはその言葉に内心反発していた。
イザークはレイを知らない
クローンとしての苦しみも、家族のいない孤独も、偽りの愛情にしか縋れない運命も。
レイにないものを彼は全て持っていて、それでいてレイの生きる理由を否定する。
許せなかった。
・・・それでも。
それでも、何故かイザークを憎いと思ったことがない。
むしろ憧れた。
彼のようになりたいと願った。
それは何故か。
イザークが、与え続ける存在だからだ。
イザークは確かにレイの生き方を否定した。
そうではない、と。
ただ、突き放しはしなかった。
より良い可能性を示し、レイを導いた。
あくまでレイの気持ちを尊重して。
小展示場は静かだった。
ゆったりとした音楽が流れ、上のパーティー会場とは別世界のようだ。
人の声は聞こえるものの、展示場だということもあってかそれも潜めたものだった。
レイは入り口で立ち止まると、中に入るべきかどうか迷う。
もうイザークはいないかもしれないし、軍服をまとった自分がうろつけば他の客の心証を悪くするだろう。
どうしたものか・・・。
「あの、すみません」
「・・・は?」
近づく気配はあった。
だが声をかけられたのがまさか自分とは思わず、レイは目を丸くする。
声の方を振り向けば、小柄な女性がこちらを見上げていた。
・・・息を呑む。
結い上げられた、長い漆黒の髪。
髪と同じ色の大きな瞳は星をいくつも浮かべたようにきらきらと輝いている。
ぷっくりと肉厚の唇は紅も差していないのにつやつやと濡れた桜色。
背丈はレイより頭一つ低いが何故か幼い感じはせず、かといって成人と判断するには微妙な危うさがある。
白をベースに薄桃色の花が描かれた和服はとても上品で、それが彼女の成熟途上の美しさを引き立てていた。
固まってしまっているレイに対し、和服の美女はレイを覗くように見上げたまま問う。
「あの、もしかしてイザークと同じミネルバの方ではないですか?」
「え・・・?あっ!」
レイはようやく目の前の女性が誰だが思い出した。
イザークの部屋にあった写真の女性・・・名前はシホ、だったか。
あの写真は髪を下ろしていたためになかなか気付かなかったが・・・間違いない。
「ジュール隊長の奥様・・・?」
それでもゆっくりと、伺うように尋ねる。
そんなレイに対し、女性は優しげに微笑んだ。
「はい。シホ・ハーネンフース・ジュールと申します」
ルナマリアの提案で、前にミネルバクルーの集合写真を撮ったことがある。
レイは気が進まなかったが、パイロットチームとブリッジチーム、そして何故か女性だけのチームに強制的に参加させられた。
焼き増しされ、クルー全員に配られたそれを、イザークはメールを使って家族に送ったらしい。
だからシホはレイの顔を知っていたのだ。
本来ならパーティ会場でちやほやされているはずのレイが展示場の入り口で立ち往生しているのを見て、
すぐに上官のイザークに会いに来たのだと察したのだ。
さすがに元赤服のエリートだけあって勘が鋭い。
シホに連れられ展示場から少し離れた休憩スペースにイザークはいた。
「レイ・・・か」
「隊長、あの・・・こんばんは」
「ああ」
イザークは妻と共に現れた部下の姿に、当然ながら驚いていた。
どうやらもう帰るところだったらしく、黒いスーツの上にコートを羽織っている。
三週間前に瀕死の重傷を負ったとは思えないほどの回復振りを見せていた。
本来なら歩くことさえままならないはずだ。
それでも完治とはいかず顔色は優れないイザークの隣に、シホが寄り添うように座る。
元上官と部下の間柄と聞いたが、恋愛感情以上に深い信頼で結ばれている夫婦なのだろう。
「レイ。いいのか、こんなところに来て?」
「ここにおられるとバートリー議員から伺って・・・挨拶だけでもと」
「ああ、あの人か」
「今夜はもうお帰りになるのですか?」
「まあな。議長にはパーティーにも出ろと言われたんだが・・・」
そう言いながら肩をすくめるイザークに、レイは頷いた。
確かに病み上がりの彼に、あの熱気のこもった会場はきついだろう。
「シンが会いたがっていましたが・・・仕方ありませんね」
「何なら家に遊びに来るといい。今は休暇中だろう?」
「・・・」
「お前と、ゆっくり話をしたいと思っていたしな」
「・・・はい」
レイは、何故か頬が紅潮するのを止められなかった。
多分・・・嬉しいのだ。
イザークが、いいや、ギルバート以外の誰かが自分のことを気にかけてくれることが。
何を話せばいいのか分からなかった。
でも、焦る必要はない。
思えばレイは己の運命(さだめ)を知ってから、常に焦っていたような気がする。
確かに自分の寿命は他の同年代の者たちのそれより短い。
発作もすでに始まり、パイロットでいられるのもそう長くはない。
それでも目の色を変え、自分には時間がないと焦って周囲まで巻き込む必要はないのだ。
死ぬのは今日明日の話ではない。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
イザークと言葉を交わすだけで、そんな気持ちになれるのが不思議で、嬉しかった。
「イザーク、迎えの車が来たわよ」
新たな女性の声がした。
下からのそれに、椅子に座っていた三人は揃って踊り場を見下ろす。
そこにいた人物に、レイはシホを見た時以上の衝撃を受けた。
銀髪碧眼の、イザークと同じ容姿を持った人。
しかしその骨格とたおやかな雰囲気そして唇のルージュが、その人が妙齢の女性だと言うことを示している。
「母上」
「お義母様・・・」
イザークとシホの言葉に、レイはようやく得心した。
初めて見るが、ザラ政権時はその片腕として秀腕を振るったエザリア・ジュールに間違いあるまい。
それにしても若い・・・。
イザークの母親と言うことは四十を過ぎているはずなのに、三十代半ばにしか見えない。
化粧で誤魔化しているというわけでもなさそうだ。
おそらくは彼女自身の努力と遺伝子的なものの産物なのだろう。
グレーのパンツスーツをきっちりと着こなしたエザリアは、軽い足取りで階段を駆け上がる。
そこでようやくレイは彼女が腕に何かを抱いていることに気付いた。
エザリアの歳に合わない容姿に釘付けになっていたが、クリーム色のお包みが大事そうに抱えられている。
「赤ん坊・・・?」
やはり銀髪碧眼の、抜けるように白い肌をした赤ん坊だった。
写真に写っていたあの子だ。
リリアナ・・・。
「あら、その子は?」
赤服のレイに気付き、エザリアが興味の視線を向ける。
「レイです。私の部下で・・・」
「まあ、そうなの。息子がお世話になってるわね」
「・・・え!?あ、その・・・っ、はじめまして・・・、レイ・ザ・バレルであります」
つい赤ん坊の方に意識を向けてしまっていたレイは、我に返ると慌てて自己紹介する。
「硬くならないでいいのよ」
「・・・はあ」
シグは、イザークは三人の美女に囲まれている、と言っていた。
黒髪和服美人の妻に、若作りのスタイリッシュな母、そして最後の一人はやはり・・・。
この赤ん坊、だろうか。
レイは再びエザリアの腕の中の生き物を凝視した。
確かにその色はイザークのものを受け継いでいるが、顔立ちはどちらに似てるとも言えない。
美人・・・なのか?
成長するとそうなるものなのだろうか。
シグはどうしてそんなことが分かるのだろう。
この赤ん坊を見ているだけで次々に疑問が湧き上がる。
「抱いてみるか?」
「・・・え?」
一瞬何を言われたのか分からず、レイは間の抜けた顔をイザークに向けた。
頭の中でイザークの言葉を反芻し、理解するとぶんぶんと首を横に振った。
「いいえ、結構です!俺には無理です!」
こんな小さくてふにゃふにゃした生き物、ちょっと力を入れただけで壊してしまいそうだ。
とてもじゃないが、恐ろしくて触れられない。
「大丈夫よ。もう首は据わってるから」
「あ・・・で、ですが・・・」
「さあ、手を出して。こことここに手を添えて支えるのよ」
「え・・・あ・・・っっ、隊長!!」
シホとエザリアはこちらの心情を知ってか知らずか赤ん坊をレイの前に差し出す。
レイは助けを求めるような視線をイザークに向けるが、あえなく無視されてしまった。
と、柔らかい感触とずっしりとした重みが腕の上に加わり、レイははっとしてそれを受け止める。
前を向いた途端、すぐ目の前にまん丸に見開かれたアイスブルーとかち合い、
それが接吻寸前まで相手と顔が近いことを物語る。
・・・凍りついた。
「あー、うぅー?」
「・・・」
暖かい。
そして柔らかい。
レイの腕の中にあるものは、確かに人の生命だった。
「あー、あーっ!」
赤ん坊が、リリアナが笑っている。
手を伸ばし、その指がレイの頬に触れた。
それもまた、柔らかく暖かい。
こんなに小さいのに、もう笑顔を作ることができる。
欲しいものに伸ばす腕と掴もうとする指を持っている。
―――これが、生命(いのち)・・・。
クローンとしてこの世に生またレイは。
このとき初めて。
人の生の神秘を垣間見た気がして、感動した。