理想の貴方
「オーブは完全中立を謳う、民主主義国家である」
だがそれはすでに表向きでのこと。
国が成立した当時からその矛盾は始まっていた。
権力を握る国家元首の座は一部の氏族が独占し、メディアには統制が敷かれ、
国民は政治家が吟味し、判断した耳障りの良い情報しか得られない。
偽りの上に成り立っている専制主義国家。
それが真実。
他国の知識人の方がかの国の特性を正確に把握している。
知らず、知る努力すらしないのは当事者たちだけ。
五大氏族の筆頭であるアスハ家は、「理想」に固執した愚かな一族だ。
そのシステムを民主主義の理想として、何の疑いもなく享受していたのだから。
一方のセイラン家はアスハほど愚かではなかったものの、やはりその甘い蜜を啜ろうとした。
そして今・・・。
自分の思い通りにならないもどかしさに国を抜け出したアスハのカガリは、
クーデターによって再び政権を手にしていた。
二度と手放すつもりはない・・・。
自分は前代表だったウズミの娘であり、カガリ・ユラ・アスハこそがオーブの民を幸せにする。
彼女もまた、夢想に基づいて国を私物化する愚かなアスハの末裔だった。
けれど、歪みは時と共に増していく。
ウズミの時代にはかろうじて表面に現れていなかったそれも、
ここ一年あまりのクライン派とホワイト・リリーの介入によって一気に突出し始めた。
「・・・オーブ軍の撤退を許してもらえないだろうか」
あつらえられた大型スクリーンの前。
まるで親にいたずらを懺悔するかのような顔で呟いたカガリに、スクリーンの向こう側にいる人物は眉をひそめた。
おかしなことだ。
カガリは一国の首長であり、相手はただの無法者集団の指導者に過ぎないというのに。
けれど、カガリは彼女・・・ラクス・クラインに、逆らうことも口答えすることもできなくなっている。
『カガリさん、デュランダル議長に屈するのですか?』
「いや、でも・・・もうオーブ内でも軍の派遣に対する抗議が起こっていて、抑えられそうにない。
そうでなくとも今回の戦闘では何の役にも立たなかったのだろう?だったら・・・」
『しっかりしてください、カガリさん。あなたはオーブの国家元首でしょう?
国を治める覚悟があったからこそお父様の跡をお継ぎになったはず・・・』
それはそうだ。
カガリが黙り込んでしまうと、ラクスの隣にいたキラが口を開いた。
『その抗議してる人たちって・・・セイラン家の人間じゃないの?側近の人たちは何て言ってるの?』
「キ、キラと同じ事を・・・」
『だったら逮捕しちゃえばいいじゃない。セイランを支持するなんて、またカガリを追い落とそうとしてるんだよ』
それは暗に、抗議行動をしている者たちを理由も無しにしょっぴけと言っているようなものだ。
側近・・・もちろんホワイトリリーの者たち・・・が同じ事を言った時はカガリは憤慨したものだが、
キラに言われると何だかぞっとしたものが体を突き抜けた。
『カガリさん』
ラクスに名前を呼ばれても、カガリは彼女と目を合わせることができなかった。
セイランにオーブを追われていた時は誰よりも清く、輝くように美しく、心強い存在であったはずのラクスとキラ。
この二人が今は恐ろしい。
『オーブ軍をお返しするわけにはまいりません。オーブの理念こそがプラントに対抗しうる力を持っているのです』
オーブの理念。
それを何度亡き父から言い聞かされたことだろう。
常に心に置いておけ、それを信条とせよ、と。
しかし今。
カガリはそれを、プラントに対するクライン派の暴力行為の隠れ蓑に使われている気がしてならない。
オーブの理念が宇宙を飛び、クライン派とプラントの戦いに持ち出されている。
首長たるカガリはここにいるというのに・・・本当にこれは正しいことなのか?
「オーブは今、残された軍では統率が取れない状況だ。
クーデターによる混乱で怪我をしたり、住居を失った国民の救済は三分の一も進まず、見通しすら立っていない」
だというのに、オーブ国民が払う税金は半分以上が軍につぎ込まれている。
そしてその軍は宇宙でラクスのために、プラントと命がけで戦うのだ。
するとラクスは、わざとらしく長いため息を吐き出した。
『分かりました、カガリさん。費用の件についてはミシュラン様にご相談してみましょう』
「い、いや・・・そういうことでは・・・」
テレーズ・ミシュランの名前を出され、カガリはどきりとした。
彼女のことは苦手だ・・・オーブ中枢の陣地を勝手に入れ替えられてしまい、常に監視されているような苦い思いをしている。
もちろん資金面で協力してもらっている以上、あまり大きなことは言えないのは分かっている。
だからこそ、これ以上彼女のホワイトリリーに借りを作ってのさばらせたくなかった。
『大丈夫。彼女はきっと援助してくださいます。だからカガリさんは今までどおり、オーブの理念を胸に邁進して下さい』
『僕たちも、必ずデュランダル議員を止めてみせるよ。心配しないで』
「だが、これ以上オーブからは・・・」
するとラクスは大丈夫ですよ、と微笑んだ。
『ここだけの話ですが、地球連合からの増援が決まりました。準備が整い次第、再びプラントに向かいます』
「ええっ!?」
カガリは瞳を見開く。
モニタの向こうのキラとラクスは相変わらず笑みを崩していなかった。
何故そんなに悠然としていられるのだろう。
先の戦闘では数の差があったにもかかわらず、事実上の敗北だと聞いた。
ウズミから託された《アカツキ》も、パイロットのネオとともに撃墜が確認されている。
だというのに・・・。
この二人は一体?
「また、戦うのか?」
『デュランダル議長がそれを望むのであれば、致し方ありません』
「・・・私は、彼が戦いの望んでいるとは思えない」
『カガリ、何言ってるの?』
カガリの言葉に噛み付いたのはキラだった。
声音は穏やかに聞こえるが、明らかに姉を非難している響きが感じ取れる。
『デュランダル議長が今までしてきたことをカガリだって知ってるでしょう?
あの人は世界をデスティニープランで支配するつもりなんだ。そのためにはどんなことだってする残酷な人だよ』
「・・・」
だが、そのデスティニープランを彼が口にしたことなど一度もない。
カガリはそう口にしようとしたが、止めた。
もうこの二人には自分のどんな言葉も届かないと思ったからだ。
『デュランダル議長は説得には応じないでしょう・・・。そして彼の暴走は、もう我々にしか止めることはできません』
『カガリ、ラクスの言うとおりにして。僕たちはちゃんと勝ってくるから』
『誰も戦いなど望んでいません。けれど、今はそうしなければならない時なのです』
『大丈夫。僕たちには、「思い」と「力」があるから』
三年前の、あの時のように。
自分たちにこそ正義があり、最終的な勝利を掴むことができる。
・・・キラとラクスはそんな夢想の中にいる。
同じく夢想の中にいたカガリはここで初めて、オーブに侵食している歪みの正体に気が付いた。
「良く口を出さなかったな、お前」
「・・・まあな」
ディアッカの言葉に、アスランは溜めていた苦い息を吐き出した。
二人は先程のラクスとカガリの通信の内容を傍らで聞いていたのだ。
「何だかもう・・・キラとラクスは気持ちが別の方に飛んでっちまってるな」
「でも、カガリもそのことに気付いている。今はそれでいい」
「今は、って・・・。随分悠長だな、お前も」
「カガリは政治家として大切なことに気付いたはずだ。あの二人を反面教師にすることで。
それを生かすか殺すかは彼女次第・・・どの道もう俺にしてやれることは何もない」
「・・・」
「いいや、もともと俺は何もするべきではなかったんだ。余計なことを考え、し続けた結果が今のこれだ」
「余計なこと、ね」
戦争をなくしたい。
より良い世界を作りたい。
その思いは誰でも最初は同じはずであるのに・・・。
「・・・で、お前はどうするんだよ、これから?」
「そういうお前はどうだ、ディアッカ?」
「・・・」
疑問を返され、ディアッカは嫌そうに片眉を上げる。
「たまにはお前から先に意見を述べろ」
「嫌な奴ー。俺はお前の後をついてここに来たわけじゃないぜ」
「知ってるよ」
「・・・」
「・・・」
ホワイトリリーがクライン派に取り入ってからというもの、爪弾きにされたアスランとディアッカはつるむことが多かった。
かといって、キラとアスランほどの気心の知れた間柄ではなく、イザークとディアッカほどの信頼関係にあるわけでもない。
今この集団に属している経緯も異なっている。
それでもアスランはかつてほど傲慢ではなかったし、ディアッカも過去の軽率さを認めていた。
「今更ザフトには戻れない」
長い沈黙の後、ぽつりと言ったディアッカに、アスランはそうだな、と頷いた。
「ラクスたちはやり過ぎた・・・。プラントでなくったって俺たちはテロリストと見なされているだろうな」
「そう、だな」
「だからこそ、ラクスも焦ってるんだと思うぜ」
テロリスト・・・それはすなわち悪を意味する。
どんな理想や大義名分を持ってしても、暴力を正当化することは難しい。
テロリストの烙印を消し去る方法があるとすれば唯一つ・・・戦争に勝つこと。
ラクスたちの場合、悪と見なしたデュランダル政権を打ち負かすことだ。
「俺たちは、戦って・・・勝つしかない」
勝てないかも、とは考えてはいけない。
クライン派は正義だ・・・ゆえに勝利が確定している。
ラクスとキラのあの取り付かれたような雰囲気は、そういう自己暗示をかけ続けたが故だろう。
アスランとディアッカはそこまで純真になれない。
しかしほんの一瞬とはいえその熱に酔い、本当に大切なものを手酷く裏切ってしまった。
アスランはシンを始めとしたミネルバのクルーたちを。
ディアッカは唯一無二の親友だったイザークを。
だから・・・。
「ここで戦い抜こう。それが誤りだとしても・・・もう、戻れないのだから」
ここは深い、深い黄泉の沼。
彼らは落ちていくその運命を甘受するしか道がないことを知っていた。
デスティニープラン。
遺伝子によってその人物の能力を特定し、それに見合った環境、職業、伴侶、将来を整える。
そのプランを受け入れた時点で、未来を確定させる。
はみ出すことは、好ましいことではない・・・。
「デスティニープランは、決して誤りではないと思うんだ」
シグの言葉に、イザークはすぐに同意することはしなかった。
デスティニープラン・・・クライン派がデュランダルをザフト軍ごと断罪するに足る、と判断した原因だ。
これを理由に、イザークはキラ・ヤマトに殺されかけた。
そう易々と判断は下せない。
「決して誤りではない・・・ということは、修正すべき点もあるということですね?」
「そうだ」
シグは電子モニタを指でタッチしながら、いくつかの単語をピックアップする。
すでに彼なりの修正版が出来上がっているのだろう。
「まず、デスティニープランとして大々的に発表するのは好ましくない。・・・クライン派がこちらを攻撃する口実を作るだけだ」
「何もないうちから攻撃してくるくらいですからね・・・」
「議長は公衆の面前で、しかも自分が単独で構想し、世界で一斉に施行すべきだと訴えるつもりだった」
一年前・・・レクイエム破砕作戦が成功し、ブルーコスモスの盟主ロード・ジブリールの死亡が確認されたときのこと。
イザークは瞠目する。
「それは・・・」
かなり危険だった。
デスティニープランが有害か無害か、それはまだ定かではないというのに。
一国家の指導者でしかないデュランダルが、結果の見えないそれを世界中に強制していると捉えられかねない。
確かに彼は世界のリーダーと見なされつつあったが、
結局はプラントの最高評議会議長という役職に就いているに過ぎないのだ。
デュランダルを思いとどまらせたシグの判断は正しかった。
「デスティニープランは、ギルバート・デュランダルではなくプラントのどこかの研究チームの名前を出して発表するべきだろう」
「そしてそのプランをデュランダル議長は後押ししている・・・」
「ああ。それくらいが無難だな。それにこれはまずはプラント内で行われるべきだ」
「そうですね。元々遺伝子操作されている我々コーディネーターならまだ受入れられる内容だ」
「すでに下地はできている。内々に希望者を募り、遺伝子を調べて適応する環境や配偶者を紹介している」
「そこまで行っているのですか?」
「保険だよ」
「・・・保険」
「とち狂ったピンクの歌姫が、デスティニープランを発表し、プラントの汚点だと騒ぎ立てるかもしれない」
なるほど、とイザークは唸る。
もしその時は、その希望してプランを受けている者たちの存在を明確にし、
デスティニープランはプラントのとある研究チームが独自に行っている範囲の狭い仮プランだと言えばいい。
クラインはデュランダルを非難したつもりが、逆に追い詰められることになりかねないだろう。
むしろシグはそれを願う気持ちの方が強いのかもしれないと思った。
現在デュランダルの側近を務めるこの若い男・・・シグ・バートリーのことは、イザークは前々から知っていた。
アカデミーを卒業してクルーゼ隊に配属された時、何度かクルーゼと接触しているのを目にしたことがあるからだ。
今から思えばその当時からデュランダルとクルーゼ、どちらとも面識があったのだろう。
しかしデュランダル派に属しているとはいえ、完全に彼の意見に同意しているわけでもないらしい。
デスティニープランに対する意見を聞くうちに、それは確信へと変わっていた。
おそらくは、彼の中ではテロリストとなったクライン派を一掃したあとのプラントの構想もすでに出来上がっているに違いない。
それにしても、何故こんな話を一軍人にしか過ぎない・・・しかも一度はエリートから転落した自分に話すのだろう。
イザークはそちらの方が気になった。
「まあ、デスティニープランはそれほど問題じゃないんだよ。
そもそも似たようなことはコーディネーターが誕生した時から行われていたのだから」
そんなことより、と。
シグはイザークに改めて向き直った。
「連合が『白鴉』の圧力に耐え切れず、増援部隊を月に送ろうとしている」
「・・・まだ向こうは懲りていないようですね」
「ああ、早くてあと二週間といったところだろう・・・そこで、君に頭に入れておいてもらいたいことがある」
「何です?」
どうやら接待の会場を抜け出し、人払いをしてまでイザークと話の場を作った本題はここかららしい。
何やら面倒ごとのようだな、とイザークはげんなりするが、ここで逃げ出せばしわ寄せはレイやタリアあたりに行くのだろう。
それは避けたい・・・覚悟を決めた。
「実は・・・」
「リリィちゃん、こっちこっち!」
「だぁ!だあっ」
「もうちょっとよ。そうそう!はいはい上手ねー」
「すごく早くなってる!」
「あー、うーっ!」
広い庭の芝生の上で、リリアナがはいはいの練習をする。
シンとルナマリアは愛嬌のある赤ん坊にすっかりめろめろだ。
ジュール邸はマティウス市の高級居住区にある。
エザリアが前夫と離婚してからイザークと共に移り住んだ時のもので、想像していたほどの豪邸ではないが、
かといって一般人には少し垣根が高いと思わせる上品な造りの家だ。
イザークとシホが籍を入れるだけの婚姻をしてからは、女三世代がつつましく生活しているそうだ。
ちなみに嫁姑の仲は良いらしく、逆に留守の多いイザークの方がつま弾きにされることが多いと言う。
ともあれレイ、シン、ルナマリアが訪れたジュール家は、暖か味のある雰囲気だった。
シンとルナマリアは芝生の上に這いつくばってリリアナにかまっていた。
そこから少しはなれた一階のバルコニーで、イザークとレイは茶を啜りながら三人を見守る。
「・・・子供が三人いますね」
「まあいいじゃないか。シンがあんな風に笑ってるのなんて、俺は初めて見たぞ」
「そう、ですね」
言われてみれば・・・。
イザークが一年前にミネルバに配属された時、すでにシンは情緒不安定だった。
彼にとってはぼんやりしているシンの方が普通であって、あんなにはしゃぐシンは驚愕に値するに違いない。
「悔しいな・・・」
ぽつりと。
言葉が漏れた。
そして自分自身が言ったことに驚いた。
「悔しいか?」
「・・・悔しい、です」
イザークはただ静かに瞳を伏せる。
レイの呟きに特に驚いた様子はなかった。
「・・・」
「俺は紛い物の命で・・・そのくせ大切な人から大切なものを奪うばかりだから」
シンから感情を奪って。
ルナマリアから笑顔を奪って。
レイにとって、この二人だけは真実の言葉をくれる存在だったのに。
何よりも大切にしたい。
死に行く自分の代わりに幸せになって欲しい。
ギルバート以外にそんな風に思ったのは彼らだけだった。
それなのに・・・!
「ジュール隊長は、俺の命は俺のものだとおっしゃいました」
「ああ。そう言った」
「でも、それじゃあ駄目なんです」
「・・・」
「俺はクローンです。アル・ダ・フラガという男のコピーです。その事実は曲げようがない」
「・・・」
「俺は自分が何者か分からなかった。・・・自分自身が他人なのだから。
俺に必要だったのは、クローンである事実以外の存在理由だった」
「・・・だから、議長に従っていたんだな」
「ギルは俺に『役目』をくれました。俺はギルのくれた『役目』を果たし、彼の役に立つことで存在理由を確立することが出来た」
「だが、議長は・・・」
「分かっています。ギルにとって俺は、ただの道具でしかないのかもしれない。でも・・・それでも良かったんです」
「レイ・・・」
「自分がクローンで、テロメアに欠陥があると知った時・・・それでも俺の傍にはラウがいた」
思わずイザークは瞠目する。
そう・・・レイとイザークは、ラウ・ル・クルーゼという存在によって繋がっていた。
しかし、彼もいなくなった。
レイがラウの死を知ったのは、アカデミーにいる時のことだった。
実の兄のように慕っていた彼の死は純粋に悲しかった。
だが、レイが苦しむのはその死に様を知った後のこと。
「ラウもずっと捜していたんです。自分の存在理由を・・・」
「お前は、彼がそれを結局見つけることができなかったと思っているのか?」
「そうでなきゃ、人類全てを葬り去ろうとなんてしませんよ」
「・・・かもな」
「ラウのことを知って、自分のいずれ来る運命を知って・・・こう結論せざるを得ませんでした」
「・・・」
「未来のない俺は、誰にも必要とされない」
アイデンティティのないことが、レイのアイデンティティだったのかもしれない。
とにかくレイは己をそう思わざるを得なくて。
そして同時に、その結論こそが何よりも悲しく、惨めなことだと知っていた。
「でもギルは、俺を必要としてくれた」
「・・・道具として、か」
レイは頷く。
ギルがいて、道を示してくれたからこそここまで来れたのだと思っている。
だから・・・感謝、している。
「嬉しかったか?」
「え?」
思わぬことを問われ、レイは目を丸くした。
「心のない道具として認識されて、嬉しかったか?それを演じ続けて満足か?」
「俺は、ギルに・・・」
感謝している。
今でもそれは変わらない。
でも・・・。
黙りこんでしまったレイに、イザークはふうーっ、と長いため息を吐いた。
すっかり冷めてしまった茶をまた一口喉に流し込み、髪をかきあげる。
「レイ」
「・・・」
「俺は父も母もいて・・・まあ小さい頃に離婚してしまったが、それでも先天的な病気もないし、クローンでもない。
アイデンティティがないと苦しむお前の気持ちなんて、安穏と育ってきた俺には一生分かりっこないんだろう」
「・・・」
「それでもな、こう思うんだ。お前はやっぱりお前だ」
「俺は・・・」
「アル・ダ・フラガという男のことは知らない。でも、俺はラウ・ル・クルーゼのことはよく知っている」
「はい」
「あの人は誰も信じず、自分自身すら信じず、ただ全てを死に収束しようとした」
「収束・・・」
「自分が誰にもなれないのなら、全てを誰でもないものにしようとしたんだと思う。
でも、お前はそんな風に思ったことはないだろう?」
「・・・、いずれはそう思うかもしれません」
「ありえないさ」
「何故そう言い切れるんです?」
「お前がレイだから」
「・・・」
「シンとルナマリアの不幸を悲しんで、その幸せを願って・・・そしてあの時、俺の命を救ったレイ・ザ・バレルだから」
イザークが椅子からゆっくりと立ち上がる。
まだ傷の治りきらない身体を緩慢な歩みで引きずり、テーブルの反対側にいるレイの前に立った。
そしてレイの頭を、子供にするようにくしゃりとかき回す。
「お前は精一杯生きている。今までも、これからも生きようとしている。
そしてシンやルナマリア、俺はそれを知っている。・・・レイ・ザ・バレルが存在する理由は、それでは駄目か?」
「『白鴉』が接触してきました」
シグの報告に、デュランダルはほう、と短く息を吐いただけだった。
「とうとう歌姫は見限られたか」
「・・・どうでしょうね」
「?」
曖昧な表現を使ったシグに、デュランダルは眉を寄せて先を促す。
「接触を図ってきたのは下っ端です。テレーズ・ミシュランの名前は出ていません。こちらの様子見・・・というところでしょう」
「両方にいい顔をしようということか。どこかの童話のコウモリのようだな」
「どう対処しますか?」
「もちろん歓迎するさ」
「・・・」
「クライン派を追い詰める駒として、ね」
ことん。
はっとシグが音をした方・・・デュランダルがいじっているチェス版へと目を向ける。
白いクイーンがデュランダルの黒いポーンに頭を叩かれ、盤の上に倒れた音だった。
「そうだな・・・。適当な役職を並べ立てて、資金援助をして欲しいということを匂わせろ。それで噛み付くだろう」
「クライン派の情報を吐きますかね?」
「吐かせるさ。どっちにしろ、親玉のミシュランが出てくるまでは下手に出続けるんだ」
「・・・了解しました」
シグが退席すると、デュランダルは今度は黒いキングを掴む。
そして白い駒を一つずつ、クイーンと同じように横倒しにしていった。
「こちらには、切り札がある。・・・私の勝ちだ、愚かな女王様」
「増援部隊は全て準備を整えた。いつでも出撃できる」
《エターナル》の艦長バルトフェルドの言葉に、ラクスは微笑を携えて頷く。
「相互連絡を密に取るように重々言い聞かせてください。以前のような混乱が起こってはいけません」
「了解しました」
「あくまで我々はオーブ軍所属です。旗艦は《クサナギ》。
《エターナル》と《アークエンジェル》は属艦だということも間違いのないように」
響きの良い声で小気味よく言い切るラクスに、エターナルのクルーたちは羨望の眼差しを向ける。
だがその内容をよく聞けば、ラクスはオーブ軍を隠れ蓑にし、いざという時責任を回避しうるということに気付くだろう。
ラクスはダコスタに命じてエターナルからの周波数を全ての艦に合わさせる。
オーブ軍、連合軍、そしてクライン派ファクトリーの全ての艦に、ラクス・クラインの映像が映り、音声が響いた。
「私は、ラクス・クラインです」
「プラントのデュランダル議長がその権力によって、ロゴスを打ち負かしたことはご存知のことと思います」
「確かにロゴスはあってはならない、戦争を煽る集団でした」
「けれども、彼らが滅んでもまだ戦争は続いています・・・これは一体何故でしょう?」
「デュランダル議長はオーブの再三の停戦要求を拒み、プラントの命に従わない国を攻撃しようとしています」
「彼のその姿勢は、先日の月艦隊との戦闘で明らかにされました」
「プラントに従わなければ死だ、と」
「地球に住む者たちに自由はない・・・そんなことはあってはなりません」
「彼は個人の遺伝子情報によって世界を統制する『デスティニープラン』なるものを世界に強制しようとしています」
「しかしそれは耳障りの良いだけの、自由のない死の世界です」
「今ここにいる皆さんはそれぞれ所属は違えど、自由を願う勇気ある同志だということを私は知っています」
ラクスは言葉言葉の折に手を胸の上に置いたり、表情に悲哀を込めたり、単語に力を込める。
政治家というよりは演劇舞台の役者に近い、モーションの大きい身振り手振りだった。
しかし彼女に心酔し、それを悲痛な決意の言葉と信じる者たちにとっては、美しく気高く映るのだ。
ラクスは他人を酔わせてしまう、持って生まれた才がある。
「力を合わせ、自由を勝ち取りましょう」
高らかに宣言した歌姫に、歓声と拍手が向けられた。
月艦隊が動き出したという情報は、すぐにプラントに入った。
プラント周辺を戦場にするわけにはいかない。
デュランダルは要塞《メサイア》を司令塔にすることを決定、自らそこに乗り込んだ。
二ヶ月前の戦闘よりも、さらに激しいものとなる。
ザフト軍は本国を守護する軍を除き、総力の七割に当たる大勢力を投入することになる。
ミネルバに加え、ナスカ級戦艦18、ガモフ級戦艦5、今回は移動要塞《ゴンドワナ》も戦線に加わる。
戦闘員は約770名、MS部隊は新編成された30小隊と14中隊にも及ぶ。
前回の三倍近い戦力となった。
「しかし増兵しているのはクライン派とて同じ。・・・数の上ではやはり向こうの方が上回っています」
シグの言葉に、デュランダルは笑みを浮かべる。
「ラクス・クラインは、己の勝利を確信しているだろうね」
「根拠はありませんがね」
「彼女にとっての勝利への根拠は、自分が正義だという夢想だけさ」
「そんなもの、根拠ではありませんよ」
務めて冷静に返したシグに、デュランダルの笑みは深くなる。
何がそんなにおかしいのだろう・・・これから血みどろの戦闘が始まろうというのに。
「彼女には根拠足りうるのさ。憐れで馬鹿なお嬢様にはね」
そのまま彼の視線は、サイドにオブジェのように置かれたチェス版へと向かった。
ラクス・クラインは勝利を確信している。
そして・・・ギルバート・デュランダルもまた勝利すると信じていた。
二人の違いは、そこにいたる根拠が夢想か現実か、だ。
「議長、全ての艦、MS部隊、配置整いました」
オペレーターの声に、デュランダルは頷く。
そして通信を《ミネルバ》、《ゴンドワナ》へと繋いだ。
すでに控えていたタリア・グラディスと、ゴンドワナの指揮官が映し出される。
「君たち二人と、私が指揮官だ。前線の8艦とMS20小隊はミネルバ、それ以外はゴンドワナの管轄とする」
「「はっ」」
「管轄内での判断は基本的に君たちに一任する。しかし、私から指示がある場合は絶対に従ってもらう」
「「了解しました」」
「ありがとう・・・。健闘を祈る」
彼は独裁者のように戦闘を鼓舞するような演説をしたりはしない。
二人の指揮官とのコンタクトを終えると、ただ一言、総指揮官として命令を下す。
「全軍、出撃せよ」
C.E.74。
その年の暮れ、ザフト軍とテロリスト・クラインの最後の闘いの幕が切って落とされた。