カコ 01
弾けない・・・。
たまらずせり上げてきたものに、小さなレイは悔しくなった。
せわしなく瞬きしてあふれそうになった涙を誤魔化し、もう一度楽譜をにらむ。
さっきからどうしてもある場所で間違えてしまう。
ゆっくり指を動かせば弾けるのだが、本来のスピードでやり直すとやはりつまづいてしまうのだ。
むきになるうち、他のところでもミスを連発してしまい、レイはとうとう手を止めた。
同時に鍵盤の上に雫が落ちる。
気づいて慌ててふき取った。
上手く弾けなくて泣いていたなんてことを、絶対にラウやギルに知られたくなかった。
乱暴に顔を拭うと、楽譜へと手を伸ばす。
もう今日は弾くのをやめよう・・・。
そう思って片付けようとした。
「もうやめてしまうのか?」
背後からの声。
レイはびっくりして振り向いた。
人のいる気配なんてなかったのに。
と、レイは後ろにいた人物を瞳に映し、また驚いてしまった。
今までに見たことのない、とっても綺麗な女の子だったからだ。
銀の髪を綺麗に切りそろえ、陶器のような白い肌を縁取っている。
ほんのりとばら色に染まった頬と唇、ガラス球のような青い瞳・・・。
上等のものだと分かるアッシュブルーの服からはすんなりと長い手足が覗いている。
レイはいつか高級人形店のショーウィンドウで見た、ビスクドールを思い出した。
一方、瞳を見開いたまま固まってしまったレイに少女は首をかしげた。
「悪かったな、驚かせてしまったか?」
すまなそうにする少女に、レイは慌てて首を振った。
彼女のかわいらしさに見とれていただけだ。
「とてもピアノが上手なんだな。曲につられて勝手に入ってきてしまった」
「・・・じょうず?レイのきょく、じょうず?」
「うん」
少女が笑顔で答える。
レイはすごく嬉しくなった。
「もっとひいてあげる」
「いいのか?」
「うん!おねえちゃん、ほめてくれたから」
レイは再び楽譜を広げる。
さっきまでつまづいて弾けなかった場所など頭になかった。
綺麗なこの子に喜んでもらいたい。
今度は上手に弾けた。
指は魔法のように動いた。
ねえ、ひけたよ。
おねえちゃん・・・。
「・・・どうぞ」
レイが差し出したコーヒーを、彼女は一瞥しただけで手を出そうとはしなかった。
相手の視線が逸らされているのをいいことに、レイはそっと彼女を観察する。
今でこそバスローブをまとっているが、
ギルバートのベッドで裸体の彼女を見つけた時は心臓が止まるかと思った。
服を着せようにもここにはギルバートのものしかない。
うら若い女性に男物の服や下着を差し出すわけにもいかず、
・・・というか他ならぬレイが生理的に嫌だったので、とりあえずバスローブを羽織ってもらったのだ。
と、レイは自分の目線が彼女の胸元に行っていることに気がつき、慌てて邪念を振り払った。
彼女はギルバートの客人なのだ、失礼があってはならない。
それにしても、似ている・・・あの時の少女に。
レイは物心ついた時にはすでに身寄りがなく、地球のある施設にいた。
5歳くらいの時に肉親だと名乗るラウ・ル・クルーゼに引き取られ、初めてプラントにやってきたのだ。
ラウは優しかったが、軍人で、家をほとんど留守にしていた。
ラウの友人だというギルバートも仕事が忙しく、そうそう遊びには来てくれない。
昼間に来て世話をしてくれる年配のハウスキーパーはいたものの、
レイの相手はもっぱら二階の一室にあった大きなグランドピアノだった。
あの日・・・。
珍しくラウが客を連れてきた。
ずっと後になって知ったことだが、いわゆる「お見合い」というやつだったらしい。
あの当時からプラントでは婚姻制を布いていて、
ラウも遺伝子の相性がいい女性と顔を合わせることになったのだ。
あの銀髪の少女はラウのお相手の妹か親類だったのだろう。
レイのピアノを褒めてくれた、愛らしい少女。
上手に曲を演奏しきって振り返った時には、彼女はいつの間にかいなくなっていた。
レイは家中を捜したが見つからず、ラウからは客人は帰ってしまったと聞かされた。
少女はレイが演奏に夢中になっているのに遠慮して黙っていってしまったのか。
それとも。
幻・・・だったのか。
けれども、今ここにいる女性は現実だ。
銀の髪もアイスブルーの瞳も、全く同じ色で同じ輝き。
17、8歳くらいに見えるから、歳も一致する。
やっぱり、もしかしたら・・・。
「・・・おい」
「え?・・・は、はい!」
またしても彼女に見入ってしまっていたレイは、突然声をかけられて焦った。
自分の視線はどのあたりに行っていただろうか。
彼女に変な奴だと思われていないだろうか。
「なにか、変なにおいがするぞ」
「変・・・におい・・・・・・ああっ!」
レイが勢いよく立ち上がり、椅子がその拍子に床に倒れた。
しかしそんなものにかまうことなく、レイはキッチンへと直行する。
彼女のためにトーストを焼いていたのだった。
・・・すっかり忘れていた。
予測どおり黒焦げになっていたトーストは処理する。
目玉焼きにはフランスパンを添え、どうにか朝食の形を作った。
食べてくれるだろうかという不安を抱きつつ、レイは彼女がいたダイニングへと戻る。
「あの・・・食事、できました・・・けど」
うつむいていた彼女の肩がびくんっ、と揺れる。
上げられた彼女の顔に浮かんでいたものは、
万引きを見咎められた子供のような、なんともいえないうしろめたそうな恐怖に似たものだった。
彼女はすぐに「それ」を隠したが、レイはしっかりと見た。
ベッドの上で彼女を見つけてからずっと左の手首に巻かれていた包帯・・・。
その下には、赤々しい傷が白い肌を無残に彩っていた。
ブログ掲載 2006/7/7
2006/12/27